日本軍関係者の供述,体験談等について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 05:24 UTC 版)
「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判」の記事における「日本軍関係者の供述,体験談等について」の解説
渡嘉敷島小隊長H証人 注:赤松大尉が自決命令を発していないとして証言した。 H証人は陳述書に「私は、正式には小隊長という立場でしたが、事実上の副官として常に赤松大尉の傍にいた」と記載しているにもかかわらず、集団自決をした住民の西山陣地への集結指示については「聞いていない,知らない」旨証言し、陳述書にも「住民が西山陣地近くに集まっていたことも知りませんでした。」と記載している。この食い違いはH証人の証言の信用性に疑問が生じさせるか、H証人が赤松大尉の言動をすべて把握できる立場にはなかったことを窺わせるもので、いずれにしても赤松大尉の自決命令を「聞いていない」「知らない」というH証人の証言から赤松大尉の自決命令の存在を否定することは困難である。 H証人は「軍として手榴弾を防衛隊員の人に配っていたと、そういうことは御存じですか。」という質問に対し、「知りません。」「配ったことについては全然わかりません。」と答えた。赤松大尉を指揮官とする第三戦隊が住民に対して自決用等として手榴弾を配布したことは、各諸文献及びそれらに記載された住民の体験談から明らかに認められるものであり、補給路の断たれた第三戦隊にとって貴重な武器である手榴弾を配布したことを副官を自称するH証人が知らないというのは、極めて不合理であるというほかない。 部隊による住民に対する加害行為についての証言も一貫性のない証言をしている。 以上指摘した点を考えるとH証人の証言は措信しがたく、H証人の証言から赤松大尉の自決命令の存在を否定することは困難である。 渡嘉敷島中隊長I証人 注:やはり赤松大尉が自決命令を発していないとして証言した。 I証人は、赤松大尉が住民を西山陣地の方に集合するように指示した3月27日には、主力部隊と合流していないとのことであるから、同日の赤松大尉の言動を把握できる立場になかったことになる。そして、翌28日の合流時間は特定できないけれども、I証人の証言等によれば第三中隊長として中隊を率いて陣地の配置場所におり、赤松大尉の側に常にいたわけでないことが認められ、同日の赤松大尉の言動を把握できる立場になかったことになる。 I証人は、集団自決に使用された手榴弾に関し,陳述書に「手榴弾は軍が管理していましたが、一部を(住民により組織された)『防衛隊』の隊員に配布していました。」「戦闘に備えて交付していたのです。」「渡嘉敷島の集団自決で手榴弾が用いられたのは、以上の理由によるもので、普段から防衛隊員が手榴弾を保していたからです。決して軍が自決を命じるために手榴弾を交付したのではありません。」と記載している。ところが,被告ら代理人の「しかしIさんは手りゅう弾の交付自体、それは御存じないんですね。」という問いに対しては「はい。」と答え、「交付の際にどういう命令が出てたということも御存じないということですかね。」という問いに対しては「そうです。」と答え、さらには手榴弾の交付時期に関する質問に対しては「私は当事者ではありませんから何月何日ごろということは私はここで申し上げることはできません。」と答えている。I証人の陳述書の記載及びその証言には疑問を禁じ得ない。 以上のとおり,I証人は赤松大尉の言動を把握できる立場にあったとは認めがたく、またその陳述書に記載された手榴弾に関する記述は証言と齟齬し信用できない。 梅澤の供述等について 原告の梅澤の陳述書は、別途、援護法の適用問題の宮村親書についての判断などで判示したとおり信用性に問題がある。 梅澤は、その本人尋問において、手榴弾を防衛隊員に配ったことも、手榴弾を住民に渡すことも許可していなかったと供述する一方、『母の遺したもの』に記載された軍曹が宮城晴美の母に手榴弾を交付した事実について、軍曹が身の上を心配して独断で行ったのではないかと供述する。 慶良間列島は沖縄本島などと連絡が遮断されていたから,食糧武器の補給が困難な状況にあったと認められ、装備品の殺傷能力を検討すると手榴弾は極めて貴重な武器であったと認められる。同じ慶良間列島の渡嘉敷島でも同様の状況であったところ、渡嘉敷島の赤松隊の中隊長は,手榴弾の交付について「恐らく戦隊長の了解なしに勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います。」と証言している。梅澤自身も、村民に渡せる武器、弾薬はなかったと供述している。そうした状況で,戦隊長である梅澤の了解なしに軍曹が住民の身の上を心配して手榴弾を交付したというのは不自然である。 しかも、当裁判において、他に複数が自決用に手榴弾を渡されたと体験談や陳述書等に記載しており、貧しい装備の戦隊長である梅澤がそうした部下である兵士等の行動を知らなかったというのは極めて不自然であるというべきである。梅澤作成の陳述書及び梅澤本人尋問の結果は、信用性に疑問があるというほかない。 赤松大尉の手記等について 赤松大尉は,雑誌『潮』(昭和46年)に「私は自決を命令していない」と題する手記を寄せているほか,『週刊新潮』(昭和43年),『琉球新報』(昭和43年4月8日付)で取材に応じた記録が残っている。 赤松大尉が、集団自決をした住民の動向を認識していたか否かという事実に関し、手記と『週刊新潮』の取材とでは大きな違いを示しており、同じ赤松大尉の認識としては極めて不合理であるというほかない。 また、米軍の捕虜となった二人の少年を処刑したことついて、同じ手記内での前段後段での矛盾や、他の記事との比較でも差異や齟齬がある。 少年の処刑に関する記載に顕著なように、赤松大尉の手記は、自己に対する批判を踏まえ、自己弁護の傾向が強く、手記、取材毎にニュアンスに差異が認められるなど不合理な面を否定できず、全面的に信用することは困難である。赤松大尉の手記の記載内容には疑問があり、それを直ちに措信することはできないというべきである。
※この「日本軍関係者の供述,体験談等について」の解説は、「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判」の解説の一部です。
「日本軍関係者の供述,体験談等について」を含む「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判」の記事については、「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判」の概要を参照ください。
- 日本軍関係者の供述,体験談等についてのページへのリンク