日学同と「楯の会」の間で
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「森田必勝」の記事における「日学同と「楯の会」の間で」の解説
1968年(昭和43年)4月、早大3年生となった必勝は早大国防部の部長に選出され、多忙となった。同年5月3日から5日に、民族派学生組織初の理論合宿「学生文化フォーラム」が八王子の大学セミナーハウスで行われた。この合宿は約70人が集まり、林房雄、三島由紀夫、村松剛のシンポジウムも開かれた。 必勝はこの合宿での幹部自己紹介で、「ぼくは、国のために死にたいと思います」と言い、一同の度肝を抜いた。この合宿で必勝と親しくなった小川正洋(明治学院大学法学部2年)は、三島が「右翼は理論ではなく心情だ」と発言したことに感動した。 同年6月15日、「全日本学生国防会議」が結成され、必勝が初代議長に就任した。必勝が議長になると日学同から伝え聞いた三島は祝辞を快諾し、市ヶ谷の私学会館での結成大会で万歳三唱した。閉会後に行われたデモ行進(靖国神社から麻布狸穴町のソ連大使館まで)でも、三島はわざわざタクシーで随伴して、窓から必勝に笑顔で手を振って激励して帰っていった。翌日の6月16日には、一橋大学小平キャンパスで行なわれた三島のティーチ・イン(「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」)を見に行き、昨日のお礼を三島に述べた。 同年6月23日、必勝は早大国防部メンバーと逗子海岸に海水浴に行った。沖合の小島まで6キロ泳いだ休憩の時、田中健一(亜細亜大学法学部)が、「ノサップから貝殻島まで、あれぐらいの距離だろうな」と言ったことから、8月上旬の北方領土視察と返還運動の際に、貝殻島までの3.7キロを泳いで上陸し日章旗を立てる決死の作戦を必勝は考えた。 遠泳作戦の志願者は必勝と遠藤秀明(早大商学部1年)の2人だけだった。結局、水温の低さで決行は無理となり、地元の漁船を盗んで渡っていく作戦も挫折し失敗してしまったが、必勝は水晶島に駐在するソ連の監視船に銃殺されるか、あるいは拿捕され長期抑留になるのを覚悟で臨み、「どうせ国に捧げた命だ。少しでも祖国の歴史の先覚的役割を担いたい」と別れの盃を仲間たちと交わした。 あのときの森田はかつての特攻隊員が恋人や親たちと別れるような、言葉では言い尽くせないほど純真で清潔な、人間が死を決意したときに見せる引き締まった顔を見せた。決死隊と残留部隊は緊張感で張りさけそうな気持ちを抑えて、涙とともに別れた。 — 宮崎正弘「三島由紀夫『以後』」 同年8月15日、必勝は靖国神社を参拝し、「靖国法完徹全国大会」に学生代表として出席した。8月20日には、ソ連によるチェコスロバキア進攻(チェコ事件)に抗議するため、ソ連大使館前で座り込みをし、北方領土返還を訴えた。 同年9月以降、日学同と論争ジャーナル組との橋渡し役であった必勝は、次第に銀座の論争ジャーナル事務所の方に頻繁に出かけるようになった。10月3日の都庁前の日学同の集会(護憲条例案を出した日本社会党への抗議)の時も午前中で退出し、早大「尚史会」(元・日本文化研究会)主宰のティーチ・インに顔を出し、三島の講演を聞きに行った。「尚史会」は日学同を除籍された持丸博、伊藤好雄、阿部勉らのグループであった。 一方この頃、三島の「祖国防衛隊」構想に、民間企業団体(経団連)の支援協力が得られないこととなり、防衛隊の名称を「楯の会」と変え、結成式が10月5日に虎ノ門の国立教育会館で開かれた。この結成式には、三島と初代学生長・持丸博、中核会員約50名が参列し、日学同からの特使の必勝、山本之聞ら5名も制服を支給され参加した。 同年10月21日、三島と必勝ら楯の会会員、山本舜勝1佐と陸上自衛隊調査学校の学生らは、国際反戦デーの左翼デモ(新宿騒乱)の状況を把握するため、デモ隊の中に潜入し組織リーダーが誰かなどを調査した。三島は、これからの左翼デモにおける自衛隊の治安出動の可能性と、その援護、魁となる斬り込み隊となる楯の会の今後の行動計画、憲法改正・自衛隊国軍化への期待を膨らませた。 同年11月、日学同中央執行委員を兼任した必勝の論文「民族運動の起爆剤を志向」が収録された『日本及日本人』が刊行され、その論文が読売新聞の大島康正の論壇時評で紹介された。無邪気に喜んだ必勝はこの記事のコピーを三島に送り、12月7日に予定されている日学同結成2周年大会の記念講演を三島宅に依頼に行った。 三島先生、日学同とのいろんないきさつを無視して、「お前が、実行委員長なら行くよ」と言われる。感激。歓談の途中、長男の威一郎君が木刀で斬りつけてきたのには閉口した。 — 森田必勝「昭和43年11月某日」 同年12月7日に九段の千代田公会堂で日学同結成2周年大会が開かれた。散会の後、日学同のメンバーは高田馬場の飲み会へ流れていったが、必勝と、その親しい仲間の田中健一、小川正洋、野田隆史(麻布獣医科大学3年)、鶴見友昭(早大1年)、西尾俊一(国士舘大学1年)らは1時間で退席し、三島と合流していった。 必勝は、楯の会の活動に重点を置くようになり、12月21日、山本舜勝1佐が楯の会の指導員としてゲリラ戦の講義をした際、休憩中に、「日本でいちばん悪い奴は誰でしょう? 誰を殺せば日本のためにもっともいいのでしょうか?」と山本1佐に訊ねたという。山本1佐は、「死ぬ覚悟がなければ人は殺せない。私にはまだ真の敵が見えていない」と答えた。
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