新日本プロレス - UWF - プロフェッショナルレスリング藤原組
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「船木誠勝」の記事における「新日本プロレス - UWF - プロフェッショナルレスリング藤原組」の解説
青森県南津軽郡尾上町(現平川市)生まれ。1984年3月、弘前大学教育学部附属中学校を卒業し、高校入学の前日に一度不合格であった新日本プロレスに入門。同期は武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也、野上彰(現:AKIRA)。 1985年3月3日、ヤングライオン杯に出場し北茨城市民体育館で後藤達俊とデビュー戦を行う。ザ・グレート・カブキ(16歳1ヵ月)の記録を塗り替える、当時史上最年少の15歳11か月でデビュー(現在の最年少記録は中嶋勝彦の15歳9か月)。 1986年1月、第1次UWF崩壊後、新日本プロレスにUターン参戦してきた藤原喜明に師事し、試合前のスパーリングパートナーを務める。伸びのあるドロップキックを武器に前座戦線を沸かせる。新日本と業務提携にあったUWFの若手、安生洋二・中野龍雄組に、野上彰とタッグを組んで臨んだ試合はUWFスタイルと新日本スタイルが融合する好試合となり前座の名物カードとなった。 1987年2月、ヤングライオン杯に出場。快進撃を続けたが橋本真也に敗れリーグ戦敗退。 1987年3月、堀辺正史の元で骨法を学び始める。 1987年8月19日、「サマーナイトフィーバーイン国技館」で行われたIWGPジュニアヘビー級王座決定トーナメントに出場。1回戦で小林邦昭と対戦し善戦するが11分1秒フィッシャーマンズスープレックスでフォール負け。 1988年4月、ヨーロッパ遠征出発。オットー・ワンツのCWAに参加し、4月から12月までの間、オーストリア、ドイツをサーキットする。船木によれば、この遠征の直前に高田延彦・山崎一夫の2人が船木の送別会を開き、その席で船木に「UWF再興」の意向を伝え、船木もその場で新UWFへの参加を決めたという。前田日明と神新二は遠征先を訪れUWF入団のアプローチをしていた。1989年1月からイギリスに渡り、山田恵一と共に活躍する。 1989年4月10日、海外遠征中に週刊プロレス誌上でUWF移籍を船木が宣言。船木の将来を嘱望した新日本が残留説得を試み、船木曰く「再契約金1000万円、さらに試合のギャラも藤波辰爾・長州力と同ランクとする」との提示も受けたが、アントニオ猪木と前田日明、同時期にUWF移籍を表明していた鈴木みのるを交えた四者話し合いの末、新日本プロレスの円満退社、UWF移籍が決定した。ただ猪木は「社長としての義務が合ったので引き留めた」ものの、個人的には当初から移籍を認めるつもりだったという。 1989年5月4日、第二次UWF1周年記念となる大阪球場大会で、共に新生UWFデビューとなる藤原喜明と対戦する。頭突きを使った藤原が一旦反則負けになるが、船木の希望で試合続行されるもヒザ十字固めで敗退。 1989年8月13日、横浜アリーナで高田延彦と対戦。開始早々、掌打と膝蹴りの連打で高田からダウンを奪う。意識朦朧としながらなんとか立ち上がる高田だがファイティングポーズを取ることもできず、レフリーもカウント9で止め、KOの10カウントを入れなかった。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}のちにUWF疑惑の判定ナンバーワンとなる曰くつきの試合となった[要出典]。結果は両者ダウンの応酬の末、高田がバックドロップからのキャメルクラッチでギブアップ勝ちした。 1989年9月7日、「U.W.F. FIGHTING BASE」大会よりリングネームを本名から「船木誠勝」に改名。 1989年11月29日、東京ドームにて「U-COSMOS」開催。UWF対世界の格闘家との異種格闘技戦を目玉とし、船木の対戦相手に当時5年間無敗のキックボクシング世界王者モーリス・スミスが予定されていたが、練習中に腕を骨折し代役として鈴木みのるが抜擢される。しかし鈴木はスミスに幾度もダウンを奪われ惨敗を喫する。 1990年4月15日、負傷による長期欠場からの復帰戦となった鈴木みのる戦ではレガースを着用せず試合を行い、グラップリングのみの展開となった。 1990年5月4日、日本武道館で行われた「UWF THE MEMORIAL」で前田日明と初対決。船木はこの試合レガースを着用せず、前田に対し骨法流の掌底とボクシング仕込みのパンチのコンビネーションを見せ前田をダウンさせるなど善戦したが、体力で圧倒する前田が後ろから抱え込んでの片羽絞めでタップアウト勝ち。試合後、しゃがみこむ船木に前田が耳元で語りかけるシーンが見られた。 1990年8月13日、高田延彦と前回と同日同じ会場で再戦。フットワークも軽やかで高田の打撃をパーフェクトにディフェンスし全く寄せ付けず、10分過ぎ、船木の掌打連打から顔面への膝蹴りで高田の目尻が深くカットしたためレフリーストップ。事実上ノックアウト勝ちを収めた。 1990年12月、第2次UWF解散に伴い、藤原喜明、鈴木みのるらと新UWF藤原組の旗揚げに参加。 1992年4月19日、東京体育館での藤原組の旗揚げ一周年記念興行で、プロボクシング世界4階級制覇のロベルト・デュランと異種格闘技戦を行う。2ラウンドにボディブローでダウンしたが、3ラウンドに捕まえ腕固めで勝利。 1992年10月4日、東京ドームでWKA世界ヘビー級王者・モーリス・スミスと異種格闘技戦を行う。4Rにダウンを奪われたが判定により引き分け。 1992年12月、格闘技的な路線を志向し、藤原組を離脱。藤原組離脱後は、どの団体にも所属せず、鈴木みのる、高橋義生らとともに練習を重ねた。
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