憲法制定前および明治憲法下
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「政党制」の記事における「憲法制定前および明治憲法下」の解説
日本の政党は、1874年1月の征韓論論争に敗れて下野した板垣退助が結成した愛国公党に起源を持つ。1881年には自由党、1882年には大隈重信の立憲改進党が結成された。フランス流進歩主義やイギリス流自由主義を目指す民党と吏党は対立関係となったため、政府は民党を取り締まったり、ドイツ流保守主義を目指す御用政党の立憲帝政党を創設したりしたものの、有効な対策とならなかった。1889年に明治憲法が制定された後も政府はしばらく議会や政党に対して超然主義を採ったものの、日清戦争で政府と民党の協力関係が成立したのを契機に流れが変わり、1898年には自由党と進歩党が合同して憲政党を結成し、日本最初の政党内閣として「隈板内閣」が誕生した。 憲政党が自由党系の憲政党と改進党系の憲政本党に分裂し、前者は1900年に伊藤博文の立憲政友会を結成した。これを与党とした第4次伊藤内閣は政党政治に道を開いた。 一方の憲政本党は1910年の立憲国民党、1913年の立憲同志会、1916年の憲政会を経て、1927年に立憲民政党となった。そして明治時代末まで政友会の西園寺公望と立憲同志会の桂太郎による政権交代が繰り返された。 さらに二度の「憲政擁護運動」に代表される大正デモクラシーを経て「憲政の常道」による慣例が生まれ、政友会と民政党による政党政治が展開されるようになった。 またロシア革命や資本主義の高度化による労働者階級の発展などを背景として日本共産党(1922年結党、1935年中央委員会壊滅)や労働農民党(1926年結成、後に分裂して日本労農党、社会民衆党、全国大衆党結党)などの無産政党が出現するようになり、1928年の普通選挙では無産政党から計8名の当選者が出ている。 政党は財界から多額の選挙資金を必要とするようになり、様々な汚職事件を起こすようになった。「政党政治の腐敗」による批判から青年将校や国家主義団体などの間で政党政治打倒を目指す動きが活発となった。それが事件となって表れたのが1932年に青年将校が中心となって起こした五・一五事件だった。首相の犬養毅は暗殺されて政党内閣の犬養内閣が崩壊し、政友会の後継総裁となった鈴木喜三郎に大命降下はされなかった。退役海軍大将の斎藤実が首相になり、政友会と民政党から閣僚を採用して挙国一致内閣を組織した。退役海軍軍人を首班とする内閣の発足を経て「憲政の常道」による政党政治は終焉した。 政治の新体制運動も盛んになり、1940年10月には各政党が解散して大政翼賛会に合流した。大政翼賛会は政治結社のため、一党独裁制には該当しない。
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