あいこく‐こうとう〔‐コウタウ〕【愛国公党】
愛国公党
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愛国公党(あいこくこうとう)は、
- 1 愛国公党とは
- 2 愛国公党の概要
- 3 愛国公党 (1874年)
- 4 参考文献
愛国公党 (1874年)
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「愛国公党」の記事における「愛国公党 (1874年)」の解説
征韓論、明治六年政変で下野した板垣退助らは、幸福安全社を基礎に明治7年(1874年)1月12日、東京京橋区銀座の副島種臣邸に同志を集めて結成。天賦人権論に基づき、基本的人権を保護し民撰議院設立を政府に要求することが当面の政治課題の第一であると謳っている。1月17日、板垣、副島らは政府に対して『民撰議院設立建白書』を提出した。建白書には、この他、後藤象二郎、江藤新平、小室信夫、由利公正、岡本健三郎、古沢滋が署名している。愛国公党は、日本でも初期の政治結社に数えられるが、議会の開催前に活動を開始したこともあり、その誕生は時代の流れよりも早すぎた、という感は否めない。後に板垣退助や片岡健吉が帰郷し、立志社を作る基となった。江藤も佐賀の乱に加わったため活動を停止。高知県における政治結社としては立志社に入れ替わる形で自然消滅を迎えたが、板垣自身は全国組織としての愛国公党の維持を模索し、東京と高知の中間地である大阪を拠点として愛国社の結成に奔走。これが、国会期成同盟となり、日本最初の政治政党・自由党の起源となった。 日本で初めて「愛国」を名称に冠した組織・団体・結社として知られる。
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愛国公党 (1890年)
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「愛国公党」の記事における「愛国公党 (1890年)」の解説
明治23年(1890年)5月5日に、旧自由党土佐派を中心に設立された政党。大同団結運動分裂後の事態に対応して、板垣退助、植木枝盛たちが旧自由党員を愛国公党へ結集しようとしたのが党創設における契機となった。結党後、直ちに自由党、大同倶楽部と合同に向けて交渉が始まり、5月14日三派が合同し、庚寅倶楽部を結成する旨を決議した。8月4日愛国公党は解党し、さらに九州同志会を含めた四派が合同して、9月15日に立憲自由党を結成した。
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