すずき‐きさぶろう〔‐キサブラウ〕【鈴木喜三郎】
鈴木喜三郎 すずき きさぶろう
神奈川生まれ。司法官僚、政治家。第一高等中学校から帝国大学法科大学を経て司法省に入る。東京控訴院判事、司法省刑事局長、司法次官、検事総長などを歴任。大正9年(1920)貴族院議員。清浦内閣の司法相。立憲政友会に入り田中内閣で内相となったが、昭和3年(1928)の第1回普通選挙で選挙干渉を批判され辞任した。7年(1932)衆議院議員。犬養内閣では司法相から内相に転じ、5.15事件後に立憲政友会総裁となるが、衆議院で絶対多数を占めていたにもかかわらず後継首相に指名されなかった。
キーワード | 政治家, 法律家 |
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鈴木喜三郎
鈴木喜三郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/25 13:06 UTC 版)
鈴木 喜三郎(すずき きさぶろう、慶応3年10月11日(1867年11月6日)- 昭和15年(1940年)6月24日)は、日本の司法官僚、政治家。立憲政友会第7代総裁。旧姓は川島。鳩山和夫の長女カヅと結婚し、鳩山一郎は義弟にあたる。司法官僚から、貴族院議員、清浦奎吾内閣の司法大臣、田中義一内閣の内務大臣を歴任し、衆議院議員から再度貴族院議員となった。犬養毅暗殺後の立憲政友会第7代総裁(在任、昭和7 - 昭和12、1932年 - 1937年)を務めた。位階勲等は従二位勲一等。
- ^ 『官報』第2350号、大正9年6月3日。
- ^ 小山俊樹『憲政常道と政党政治 -近代日本二大政党制の構想と挫折-』2012年11月、思文閣出版、P241-242
- ^ 原田熊雄『西園寺公と政局』。
- ^ 141102伊勢原市 国登録有文化財見学会 雨岳文庫
- ^ a b c 肥田琢司『政界追想』(肥田琢司遺稿刋行会, 1964)9頁
- ^ 島崎清『軽井沢百年の歩み』(島崎清 , 1978)61頁
- ^ 【軽井沢人物語】日新化工元専務取締役 エイコウ製菓元社長 鈴木 昭郎 さん 軽井沢ウェブ(2021年10月8日, 軽井沢新聞社)
- ^ 『官報』第7337号「叙任及辞令」1907年12月11日。
- ^ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。
- ^ 『官報』第2767号「叙任及辞令」1921年10月21日。
- ^ 『官報』第4042号「叙任及辞令」1940年6月28日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『官報』第317号「叙任及辞令」1928年1月21日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第4041号「叙任及辞令」1940年6月27日。
- 1 鈴木喜三郎とは
- 2 鈴木喜三郎の概要
- 3 生涯
- 4 ゆかりの地
- 5 外部リンク
鈴木喜三郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/30 02:39 UTC 版)
3バカの1人。アブない奴。社会学部の学生。学生運動組織「安下宿共斗会議」のリーダー格。教室を間違えるどころか学校を間違えて試験を受けるというとぼけた一面を持つ。
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