清浦内閣とは? わかりやすく解説

清浦内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/14 15:46 UTC 版)

清浦内閣(きようらないかく)は、子爵枢密院議長清浦奎吾が第23代内閣総理大臣に任命され、1924年大正13年)1月7日から1924年(大正13年)6月11日まで続いた日本の内閣


注釈

  1. ^ a b 1924年(大正13年)6月8日勅任。
  2. ^ 南満州鉄道副総裁。

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清浦内閣

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清浦奎吾」の記事における「清浦内閣」の解説

「清浦内閣」および「第二次護憲運動」も参照 1923年大正12年)、第2次山本内閣虎ノ門事件総辞職すると、総選挙施行のため公平な内閣出現を望む西園寺推薦によって、組閣の大命は再び清浦の下に降下した1月1日大命受けた清浦75歳という老齢枢密院議長という職責から拝辞したい意向1月3日奏上するが、摂政宮裕仁親王より「此際の事であるから務めてやれ」という優諚受けたため、清浦組閣を行うこととなった清浦組閣にあたって自らの支持基盤であった研究会中心したため内閣構成貴族院大きく偏重していた。貴族院からの入閣研究会が3、交友倶楽部が2、茶話会が1、公正会が1という配分であり、陸海軍大臣のほかは外務次官であった松井慶四郎入閣したのみであり、政党からの入閣者はなかった。ただし、西園寺清浦推挙にあたって政友会尊重せしめ、政策により助けさせるが宣し」と述べたように西園寺は清浦内閣と政友会協調が行われると考えており、清浦の側では政友会を敵とする意図持っていなかった。また研究会伝統的に政友会との協調関係持っており、組閣にあたって政友会との調整が行われていた。また内閣書記官長として政友会衆議院議員であった小橋一太招き政友会との連絡保持されていた。清浦は後に貴族院で「過渡期ニ於イテ斯ノ如キ内閣憲政常道に背クモノトハ思イマセヌ」と答弁している。 ところが山本内閣の後は政友会内閣であろう考えていた政友会派閥はこれに反発し総裁高橋是清辞任させようという動き強まった高橋派主導権奪還のために清浦内閣との対決姿勢強め一方1月1日夜に反高派である「改革派」の会合が行われ、清浦内閣に対し積極援助の方針を取る」ことが申し合わされている。 1月11日には都内新聞各紙が清浦内閣に反発したこともあり、議会内外での倒閣動きはじまった1月18日枢密顧問官三浦梧楼仲介政友会総裁高橋是清憲政会総理加藤高明革新倶楽部犬養毅会合が行われ、「特権内閣一日早く打倒」するという申し合わせが行われ、いわゆる護憲三派による倒閣活動第二次護憲運動」が本格化した。 これを受けて1月22日衆議院本会議では清浦首相施政方針演説普通選挙法提出を行う予定であったが、裕仁親王成婚控えた中で政争は慎むべきであるという政友会小川平吉動議により、29日までの休会議決されたため、行われなかった。一方研究会勢力拡大とその党派性の強い議会運営反感抱いていた「幸三派」と呼ばれる研究会勢力による貴族院内での清浦批判勢いづいた。 また護憲三派2月1日内閣不信任案提出する意向固め、これを察知した小橋書記官長それ以前解散進言した。清浦はこれを容れ、1月29日本会議解散行った。これは「懲罰解散」と呼ばれ各層反感を買った1月29日には政友会から「改革派であった床次竹二郎一派149名が政友本党結成して分裂し、清浦内閣の準与党となった5月10日行われた第15回衆議院議員総選挙結果護憲三派合計281名が当選一方で与党政友本党改選前議席から33減の116議席となった清浦はすでに敗北予期しており、投票日当日には辞任する意向漏らしている。西園寺は「清浦辞する要はないと思ふ」と述べたものの、現実には議会運営不可であった5月15日に清浦内閣は総辞職した。5か月間の短命内閣であった清浦憲政の常道従い第一党となった憲政会総裁加藤高明推挙したいという意向西園寺伝えたが、西園寺拒絶し元老としての西園寺改め加藤奏薦した。

※この「清浦内閣」の解説は、「清浦奎吾」の解説の一部です。
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