憲法制定議会の解散
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 07:19 UTC 版)
詳細は「全ロシア憲法制定会議」を参照 二月革命以後、国家権力の形態を決めるものとして臨時政府が実施を約束していた憲法制定議会は、十月革命までついに開かれなかった。ボリシェヴィキは臨時政府に対してその開催を要求してきたため、武装蜂起が成功したあとの10月27日に憲法制定議会の選挙を実施することを決めた。しかし11月に行われた選挙では社会革命党が得票率40パーセントで410議席を得て第一党となり、ボリシェヴィキは得票率24パーセントで175議席にとどまった。 レーニンは12月26日に「憲法制定議会についてのテーゼ」を発表した。憲法制定議会はブルジョワ共和国においては民主主義の最高形態だが、現在はそれより高度な形態であるソヴィエト共和国が実現している、としたうえで、憲法制定議会に対してソヴィエト権力の承認を要求するものだった。一方、社会革命党は「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンを掲げ、十月革命を否定する姿勢を示した。 翌年1月5日に開かれた憲法制定議会は社会革命党が主導するところとなり、ボリシェヴィキが提出した決議案を否決した。翌日、人民委員会議は憲法制定議会を強制的に解散させた。1月10日にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国の成立が宣言され、ロシアは世界初の共産主義国家となった。
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