平幕での健闘~現役引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:31 UTC 版)
大関復帰が夢と消えた後も、雅山は元大関としての意地を見せる場面が見られた。2007年(平成19年)3月場所2日目には横綱・朝青龍明徳と対戦し、足をぐらつかせるほどの強烈な突っ張りの末に寄り倒しで勝利し、自身初の金星を獲得した。雅山は初土俵から所要10場所で三役に昇進したため、雅山に限らずスピード昇進を果たした力士の金星の数は得てして少ない。その後も7日目まで4勝3敗の成績を挙げたが、7日目の対旭天鵬勝戦で右の太股を痛めて途中休場となった。2007年6月頃に母が死去した事で深く悲しみ、本場所(2007年7月場所)で花道に控える付け人に母の遺影を掲げるよう頼んだ時期もあったという。関脇陥落後も平幕上位の地位を保ち続け、横綱・大関と対戦する場面も見られたが次第に上位では勝ち越せなくなり、2009年(平成21年)5月場所では初めて平幕二桁台となる前頭11枚目まで陥落した。それでも2008年9月場所前に結婚した事で発奮し朝青龍から2個目の金星を獲得し、11月場所では初日から7連勝し一時優勝争いに加わる、さらに1年後の2009年11月場所では前頭9枚目で12勝3敗の好成績を挙げる活躍を見せ、3年半ぶりの三賞(敢闘賞)を受賞した。 2010年(平成22年)に発生した大相撲野球賭博問題では賭博に関与したとされ、特別調査委員会から同年7月場所の出場停止(謹慎)を勧告され、相撲協会も受け入れた。それによって同年7月場所は全休とされ、同年9月場所は1977年(昭和52年)の大受久晃以来史上2人目となる「元大関の十両陥落」となった。しかし元大関では十両での力の差は歴然で、12勝3敗の好成績を挙げて幕内復帰を果たしたが、野球賭博問題に関しては2011年(平成23年)3月3日に「賭博開帳図利容疑」で書類送検されるなど、雅山自身も含めて角界全体に暗い影を落とした。同年11月場所では11勝、2012年(平成24年)1月場所では久しぶりの三役(小結)に復帰したが、元大関が十両に陥落した後に三役へ復帰したのは雅山が史上初である。この頃に入ると加齢による衰えと足裏にまで巻かれたテーピングや足袋のためか膝から滑り落ちる負け方が目立ち始め、この場所は3勝12敗と大敗。その後も横綱・大関との対戦が基本的に組まれない平幕下位でも勝ち越しと負け越しを繰り返し、負け越しも二桁敗戦などが目立ち、番付次第では十両再陥落が起こりうる状況が続く。 2012年(平成24年)12月場所は負け越せば即十両陥落となる幕尻の東前頭16枚目、さらに心臓に痛みが走る症状が現れただけでなく脳梗塞まで疑われる状態で出場するも、2013年(平成25年)1月場所は初日から8連敗を喫する。9日目の対玉鷲一朗戦で初勝利を挙げたが、その際に館内から温かい拍手を受けて花道で涙を流した。負け越したことで十両再陥落が現実味を帯びたが「まだ気持ちは切れていない」と述べ、十両陥落後も現役を続ける決意を表した。同年3月場所は十両9枚目となり、自身2度目の十両陥落と同時に自身の持っていた元大関の最低地位を更新してしまった。そして10日目に負け越しが決定すると、13日目でも敗れたことで幕下陥落が決定的となり、千秋楽(3月24日)の対鬼嵐力戦に勝利したのを最後に現役引退を表明、年寄・二子山を襲名して後進の指導に当たることを発表した。大関陥落後、関脇以下の地位を68場所に渡って務めたが、これは2009年(平成21年)7月場所を最後に引退した出島武春の48場所を大きく超える史上最長記録となった。
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