島津忠寛とは? わかりやすく解説

島津忠寛

読み方しまづ ただひろ

佐土原藩主通称又之進・徳次郎・佐嘉郎・淡路守、号は蠖堂。日向佐土原生、東京住。宗家島津斉彬薫陶をうけ尊王の志厚く戊辰戦争では官軍先鋒をつとめる。藩知事子爵伯爵となり麝香間祗候列した明治29年(1896)歿、69才。

島津忠寛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 08:05 UTC 版)

 
島津忠寛
島津忠寛
時代 江戸時代後期 - 明治時代中期
生誕 文政11年2月9日1828年3月24日
死没 明治29年(1896年6月20日
改名 徳次郎(幼名)、忠寛
別名 又之進、佐嘉郎(通称)、蠖堂(号)
戒名 忠愛院殿正覚良道大居士
墓所 東京都渋谷区広尾の東北寺
官位 従五位下淡路守従四位下従三位正三位従二位正二位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇
日向佐土原藩
氏族 島津氏
父母 父∶島津忠徹、母∶島津斉宣娘随姫
兄弟 忠施、小川久抹、忠寛、宮原義敬、勵、
美子、艶
奥平昌高松平光庸
忠亮大村純雄啓次郎
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島津 忠寛(しまづ ただひろ)は、日向国佐土原藩第11代(最後)の藩主。通称は又之進、徳次郎、佐嘉郎。号は蠖堂。

生涯

文政11年(1828年)2月9日、第10代藩主・島津忠徹の三男として江戸三田邸にて生まれる。天保10年(1839年)、父の死去により跡を継いだ。藩政においては文武の発展、さらには藩財政再建のために藩内における産物の統制や専売制の導入、新田開発や造林、税制改革などを行なって一時は財政を好転させた[1]が、藩札発行に失敗し、財政は悪化した。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では本家の薩摩藩に従って新政府側として参戦した。明治元年(1868年)6月、明治天皇より錦の御旗を賜る。その後の佐土原藩兵の上野戦争、さらに会津藩米沢藩などとの戦いでの功績により、明治2年(1869年)に賞典禄として3万石を与えられた。同年の版籍奉還知藩事となり、また、広瀬城の築城を開始し、佐土原城を破却した。明治4年(1871年)の廃藩置県で免官される。嫡男の忠亮は、子爵、次いで伯爵に叙され、麝香間祗候に列した。

明治29年(1896年)6月20日に死去した。享年69。

栄典・授章・授賞

系譜

父母

正室、継室

側室

  • あり

子女

脚注

  1. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、560頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  2. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  3. ^ 『官報』第2454号「叙任及辞令」1891年9月2日。
  4. ^ 『官報』第3893号「叙任及辞令」1896年6月22日。
  5. ^ 大村純熈の婿養子。



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