松平喜徳
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松平 喜徳(まつだいら のぶのり[1][注釈 1])は、幕末から明治期にかけての大名、華族(子爵)[2]。会津藩藩主[3]。会津松平家10代当主[注釈 2]、守山松平家9代当主。字は子礼[2][3]。雅号は、天山、有隣堂[3]。
注釈
- ^ よみは『平成新修旧華族家系大成』による。慶喜に「よしひさ」と呼ぶ説が存在していることから、喜徳自身にも「のぶのり」ではなく、「ひさのり」と呼ぶという説がある[要出典]。 出典は、『会津戊辰戦死者の虚と実』野口信一著(歴史春秋社)の13頁に根拠が書かれている。根拠史料は『田中玄清事実』。
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』松平(会津)子爵家の項(下巻p.586)では、容保の代で断絶した家名を容大が再興したという記述になっている。喜徳は傍系とされ、当主としては記載されていない。
出典
- ^ a b c d 維新史料編纂会 1929, p. 614.
- ^ a b c d e f "松平喜徳". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2022年12月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g 大関 1994, p. 910.
- ^ 維新史料編纂会 1929, p. 607,614.
- ^ a b c d e 野口 2005, p. 191.
- ^ a b 国書刊行会 1984, p. 422.
- ^ 国書刊行会 1984, p. 440.
- ^ 野口 2005, p. 168.
- ^ a b “幕末へタイムトラベル(戊辰150周年記念連載)|平成30年9月号 甲賀町通(北出丸大通り)”. 会津若松市 (2019年1月31日). 2022年12月17日閲覧。
- ^ 野口 2005, p. 183.
- ^ a b 野口 2005, p. 187.
- ^ 国書刊行会 1984, p. 453.
- ^ 国書刊行会 1984, p. 454.
- ^ 野口 2005, p. 189.
- ^ 野口 2005, pp. 189–190.
- ^ 国書刊行会 1984, p. 457.
- ^ 国書刊行会 1984, pp. 459–460.
- ^ a b c 国書刊行会 1984, p. 462.
- ^ 大蔵省印刷局 編『官報 1892年06月18日』日本マイクロ写真、1892年、179頁。NDLJP:2945956。
- ^ “戊辰戦争150年”. 福島県立博物館. 2023年8月29日閲覧。
- ^ 福島県立博物館【公式】の2018年9月20日午後8:06のツイート、2023年8月29日閲覧。
- ^ 『官報』第308号、1884年7月9日。
- ^ 維新史料編纂会 1929, p. 607.
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