島津 国久 (しまづ くにひさ)は、戦国時代 の武将 。薩摩国 島津氏 の分家・薩州家 2代当主。
嘉吉2年(1442年)、薩州家初代当主・島津用久 の長子として誕生。
島津宗家11代当主・島津忠昌 と対立し、所領の出水 で叛旗を翻す[1] 。国久は大隅国 の国分 方面に侵攻したが、忠昌が救援に出向いたため撤退。手薄になった加世田 を占領する。同時期に国久に応じるように豊州家 の島津季久 ・相州家 の島津友久 が反乱を起こす。友久は鎮圧され季久も降伏するが、国久は出水で勢力を保っていた。
文明 16年(1484年 )、伊作氏 の伊作久逸 が忠昌に背き鹿児島 に侵攻すると、忠昌に従い鹿児島の守備についている。また季久の子で豊州家 2代当主・忠廉 が久逸と時を同じくして反乱を起こすとこれを説得。味方につけて共に久逸を攻撃、久逸の反乱を治めている。こうして一種の半独立状態にあった薩州家だったが、明応7年(1498年)、国久が没すると跡目を巡り御家騒動が勃発。各分家を巻き込む騒乱となった。
脚注 ^ 伊地知季安 が編纂した『御当家始書』によれば、島津当家10代当主・島津立久 は国久を養嗣子に迎えていたが、喝食として寺に預けられていた忠昌が当主になったとされる。 島津薩州家 第2代当主(1459年 - 1498年)
宗家 忠久 ????-1227 | 忠時 1227-1265 | 久経 1265-1284 | 忠宗 1284-1318 | 貞久 1318-1363 | 総州家と奥州家に分裂
総州家 師久 1363-1376 | 伊久 1376-1404 | 守久 1404-???? | 久世 ????-1417 | 久林 1417-1430 | 断絶
奥州家 氏久 1363-1387 | 元久 1387-1411 | 久豊 1411-1425 | 忠国 1425-1470 | 立久 1470-1474 | 忠昌 1474-1508 | 忠治 1508-1515 | 忠隆 1515-1519 | 勝久 1519-1526 | 貴久 1526-1566 | 義久 1566-1587 | 義弘 1587-1602 | 家久 1602-1638 | 光久 1638-1687 | 綱貴 1687-1704 | 吉貴 1704-1721 | 継豊 1721-1746 | 宗信 1746-1749 | 重年 1749-1755 | 重豪 1755-1787 | 斉宣 1787-1809 | 斉興 1809-1851 | 斉彬 1851-1858 | 忠義 1858-1897 | 忠重 1897-1968 | 忠秀 1968-1996 | 修久 1996-現在
越前家 播磨家 忠行 行景 忠政 忠幹 忠藤 忠兼 忠親 範忠 忠儙 忠秀 忠光 忠勝 忠持 忠長 忠之 義弘 政之 義綱 忠長 良久 忠義…義清 義重 忠正 信夫 昌之 伊作家 久長 1281-1317 | 宗久 1317-1354 | 親忠 1354-1371 | 久義 1371-1422 | 勝久 1422-1433 | 教久 1433-1442 | 犬安丸 1442-1458 | 久逸 1458-???? | 善久 ????-1494 | 忠良 1494-1526 | 相州家相続
薩州家 用久 ????-1459 | 国久 1459-1498 | 成久 1498-???? | 忠興 ????-1525 | 実久 1525-1553 | 義虎 1553-1585 | 忠辰 1585-1595 | 断絶
相州家 → 垂水家豊州家 玉里家 久光 1871-1887 | 忠済 1888-1915 | 忠承 1915-1990 | 忠広 1990-現在
加治木家 佐土原家 忠興 1610-1637 | 久雄 1637-1663 | 忠高 1663-1676 | 久寿 1676-1690 | 惟久 1690-1723 | 忠雅 1723-1753 | 久柄 1753-1785 | 忠持 1785-1816 | 忠徹 1816-1839 | 忠寛 1839-1896 | 忠亮 1896-1909 | 忠麿 1909-1926 | 久範 1926-1944 | 忠韶1944-1973 | 忠範1973-現在
重富家 和泉家→ 今和泉家 宮之城家 永吉家 家久 豊久 忠栄 久雄 久輝 久貫 久抦 久芳 久寛 久輔 久明 久陽 久敬 久籌 久徴 久憲 泰輝 基之 博之 日置家 北郷氏 → 都城家佐多氏 → 知覧家