対戦した勢力
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この七日間の戦いには両軍合わせて約20万人の戦力が投入されたが、双方の将軍達の不慣れさや慎重さもあって、適切な戦力の集中が行われず、決定的な戦術的勝利を生まなかった。 南軍側では、リーの北バージニア軍がジョンストンから引き継いだものより大きくなり、総勢で92,000名となった。これは南北戦争の残り期間を考えてもリーが指揮した軍隊としては最大のものとなった。 ストーンウォール・ジャクソン少将、バレー方面作戦での勝利から到着したばかりであり、自身の師団(この時はチャールズ・S・ワインダー准将が指揮)、およびリチャード・イーウェル少将、ウィリアム・H・C・ホワイティング准将とD・H・ヒル少将の各師団で構成されていた。 A・P・ヒル少将の「軽師団」(軽装で動き、素早い操軍や攻撃が可能だったのでこう名付けられた)、チャールズ・W・フィールド、マクしー・グレッグ、ジョセフ・R・アンダーソン、ローレンス・オブライアン・ブランチ、ジェイムズ・J・アーチャーおよびウィリアム・ドーシー・ペンダー各准将の旅団で構成されていた。 ジェイムズ・ロングストリート少将の師団、ジェイムズ・L・ケンパー、リチャード・H・アンダーソン、ジョージ・ピケット、カドマス・M・ウィルコックス、ロジャー・A・プライアおよびウィンフィールド・スコット・フェザーストン各准将の旅団で構成されていた。ロングストリートはヒルの軽師団に対する作戦指揮権もあった。 ジョン・B・マグルーダー少将はラファイエット・マクローズ少将、デイビッド・R・ジョーンズ准将の各師団を指揮し、またハウエル・コブ准将が指揮するマグルーダー自身の師団も指揮した。 ベンジャミン・フーガー少将の師団、ウィリアム・マホーン、アンブローズ・R・ライト、ルイス・アーミステッドおよびロバート・ランソム・ジュニア各准将の旅団で構成されていた。 テオフィラス・H・ホームズの師団、ジュニアス・ダニエル、ジョン・G・ウォーカー、ヘンリー・A・ワイズ各准将の旅団、およびJ・E・B・スチュアート准将の騎兵旅団で構成されていた。 マクレランのポトマック軍は、およそ104,000名おり、セブンパインズの戦いと同様な構成だった。 第2軍団、エドウィン・V・サムナー准将指揮、イズラエル・B・リチャードソンおよびジョン・セジウィック各准将の師団。 第3軍団、サミュエル・P・ハインツェルマン准将指揮、ジョセフ・フッカーおよびフィリップ・カーニー各准将の師団。 第4軍団、エラスムス・D・キーズ准将指揮、ダライアス・コウチおよびジョン・J・ペック各准将の師団。 第5軍団、フィッツ・ジョン・ポーター准将指揮、ジョージ・W・モレル、ジョージ・サイクスおよびジョージ・A・マコール各准将の師団。 第6軍団、ウィリアム・B・フランクリン准将指揮、ヘンリー・W・スローカムおよびウィリアム・F・"ボールディ"・スミス各准将の師団。 予備隊、フィリップ・セントジョージ・クック准将(J・E・B・スチュアートの義父)の騎兵予備隊、およびサイラス・ケイシー准将のホワイトハウス・ランディングにいる物資基地。
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対戦した勢力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/26 01:42 UTC 版)
プライスはミズーリ軍と呼ばれた騎兵隊を集め、総勢は12,000名だったが、そのおよそ3分の1は作戦当初武装もしていなかった。3個師団で構成され、それぞれジェイムズ・F・ファガン少将、ジョン・S・マーマデューク少将およびジョセフ・O・"ジョー"シェルビー准将が指揮した。 北軍はこの作戦を民兵隊とアンドリュー・J・スミス少将の第16軍団に、ウィリアム・ローズクランズのミズーリ方面軍から派遣されたアルフレッド・プレソントン少将の騎兵師団が補充されて始まった。ローズクランズはスミスの軍団が(プライスの初動の時に、海軍の輸送船に乗っておりイリノイ州カイロを出発してジョージア州のシャーマン軍に加わる予定だった)この脅威に対応するためにミズーリ州任務を割り当てられることを要請した。陸軍参謀総長ヘンリー・ハレックは直ちに要求に応じてスミスに上流に向かうよう命じた。10月半ばまでに新しく起こされた境界軍の指揮官サミュエル・R・カーティス少将(ピーリッジの戦いでプライスの旧敵)の指揮下でカンザス州境から追加部隊が到着した。カーティスはジェイムズ・G・ブラント少将(騎兵師団)、ジョージ・W・ディーツラー少将(カンザス州兵師団)、プレソントンの騎兵隊およびスミス軍団から派遣されたジョセフ・J・ウッズとデイビッド・ムーア各大佐の歩兵師団を指揮し、総勢は約35,000名となった。
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対戦した勢力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 03:16 UTC 版)
「ゲティスバーグ方面作戦」の記事における「対戦した勢力」の解説
ストーンウォール・ジャクソン中将の戦死にともない、リーは北バージニア軍の大きな2個軍団を新しく3個軍団に再編した。ジェイムズ・ロングストリート中将は引き続き第1軍団を指揮したが、師団の数は減った。ジャクソンが率いていた軍団は2つに分けられ、第2軍団はリチャード・イーウェル中将に、新しい第3軍団はA・P・ヒル中将に率いさせた。これら3個軍団とJ・E・B・スチュアート少将の騎兵師団を併せ、総軍は約75,000名となった。 ジョセフ・フッカー少将のポトマック軍は、7個の歩兵と砲兵の軍団、1個騎兵軍団および砲兵の予備隊がおり、総勢は90,000名以上となった。しかし、エイブラハム・リンカーン大統領は間もなく、フッカーがチャンセラーズヴィルで敗れたことと、リーの2回目のポトマック川北への侵攻に対するフッカーの反応に同意できなかったこととで、フッカーを解任し、ジョージ・ミード少将に置き換えた。
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対戦した勢力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/03 10:13 UTC 版)
ポトマック軍は、マクレランがモンロー砦に到着した時に約5万名がいたが、この数字は対決が始まる前に121,500名まで膨れた。これらの兵士に、15,000頭の馬とロバ、および1,150両の荷車を運ぶことは大変な仕事だった。113隻の蒸気船、188隻のスクーナーおよび88隻のバージを要した。軍隊は3個軍団とその他の部隊に組織化された。 第2軍団、指揮はエドウィン・V・サムナー准将、2個師団(イズラエル・B・リチャードソン、ジョン・セジウィック各准将) 第3軍団、指揮はサミュエル・P・ハインツェルマン准将、3個師団(フィッツ・ジョン・ポーター、ジョセフ・フッカー、およびチャールズ・S・ハミルトン各准将) 第4軍団、指揮はエラスムス・D・キーズ准将、3個師団(ダライアス・コウチ、ウィリアム・F・"ボールディ"・スミスおよびサイラス・ケーシー各准将) 第1軍団の第1師団、指揮はウィリアム・B・フランクリン准将 予備歩兵隊、指揮はジョージ・サイクス准将 騎兵隊、指揮はジョージ・ストーンマン准将 モンロー砦守備隊、ジョン・E・ウール少将指揮下の12,000名。陸軍省はウールがマクレランより表向き上級将官であることを認識し、直ぐにウールをボルティモア勤務の他の方面軍に転任させた。 南軍側では、ジョンストンの北バージニア軍(3月14日に新しく命名)は、3つの翼で構成され、翼ごとに数個旅団があった。 左翼、指揮はD・H・ヒル少将、4個旅団(ロバート・E・ローズ、ウィンフィールド・S・フェザーストン、ジュバル・アーリーおよびガブリエル・J・レインズ各准将) 中央翼、指揮はジェイムズ・ロングストリート少将、6個旅団(A・P・ヒル、リチャード・H・アンダーソン、ジョージ・ピケット、カドマス・M・ウィルコックス、ローリー・E・コールストンおよびロジャー・A・プライア各准将) 右翼、指揮はジョン・マグルーダー少将、ラファイエット・マクローズ准将の師団(4個旅団(ポール・J・セムズ、リチャード・グリフィス、ジョセフ・B・カーショーおよびハウエル・コブ各准将))およびデイビッド・R・ジョーンズ准将の師団(2個旅団(ロバート・A・トゥームズおよびジョージ・T・アンダーソン各准将)) 予備部隊、指揮はグスタヴス・ウッドソン・スミス少将 騎兵隊、指揮はJ・E・B・スチュアート准将 しかし、ポトマック軍が到着したとき、マグルーダーの13,000名のみが半島で向かい合った。主力のジョンストン軍43,000名はカルペパーに、セオフィラス・H・ホームズ少将軍6,000名はフレデリックスバーグに、またベンジャミン・フーガー少将軍9,000名はノーフォークにいた。リッチモンドでは、ロバート・E・リー将軍がカロライナ海岸の防塞化任務から戻り、3月13日にジェファーソン・デイヴィス大統領の首席軍事顧問になった。 シェナンドー渓谷にいた軍隊はこの作戦では間接的な役割を演じた。北軍のナサニエル・バンクスおよびアービン・マクドウェル各少将指揮下の約5万名が、バレー方面作戦を遂行中のストーンウォール・ジャクソン麾下のかなり小さな部隊の追跡に携わっていた。小さな戦闘におけるジャクソンの卓越した操軍と戦術的な成功により、北軍がマクレラン軍を補強することを妨げ、マクレランは大いに失望した。マクレランの作戦では、マクドウェルが3万名を率いて加わることになっていた。
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