寺史
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瑞雲山本光寺は三河地方を中心にに三十七ヶ寺の末寺を持ち、本寺である三河泉龍院(末寺二百ヶ寺)・三河龍渓院(末寺五百ヶ寺)・駿河大洞院(末寺二三六九ヶ寺)・総持寺に、輪番として数年毎に赴任していました。 戦国末期に皇室より中本山の寺格を拝受し、また御朱印地としての徳川一門の寺院として、島原藩内僧禄司役寺の格式を持つ本光寺の住持が輪番に赴く際には、僧侶・藩士多数が同行し行列は華々しかったと伝えられています。その際、住持は島原藩から路費・住費として二百両を支給され、不足の折は百両を追給されたと記録されています。 本光寺の一般財政は、年間475石(朱印100石、祠堂米325石、地行50石)の俸禄で賄われていました。
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寺史
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京都本山妙覚寺の末寺として福山寺町に位置する。 寺伝によると開基は福山初代藩主水野日向守勝成という。 開山は智善院日鳳聖人(1644年〈寛永21年〉10月26日遷化)である。当山はもと三州(愛知県三河地方)刈谷市で一乗寺と呼称していたが、1620年(元和6年)水野家の家臣木村八太夫光政が日鳳上人を迎えて当地に移転再建した。福山藩主水野家筆頭家老の上田玄蕃は水野家三代に仕え、北吉津の妙政寺を移建、さらに実相寺を開くなど法華宗に深く帰依した人であり、その士である木村八太夫光政も法華信仰深く、光政寺を護持した。 当山6世覺隆院日通大徳(1698年〈元禄11年〉遷化)は、不受不施を信奉し、教義折伏教化を伝統として反権力の立場を貫徹した傑僧として著名な人物であり、当地の有力者である青山喜八郎の外護によって寺院全般にわたる整備がなされている。別に当山20世慈舟院日英聖人は学識高く人望があり、京都本山頂妙寺47世に就任された高僧である。 第二次世界大戦による福山大空襲(1945年〈昭和20年〉8月8日)によって祖師堂はもとより、本堂・庫裡ことごとく灰燼に帰したが、第23世泰享院日意聖人は早々に寺門再建を意図し、粟根妙永寺本堂を譲渡され、今日にその景観を伝えている。 本堂の大改修と庫裡の新築は、開山聖人の350遠忌記念事業として1992年(平成4年)秋竣工、境内全般の整備は立教開宗750年記念事業として2001年(平成13年)に完了した。
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寺史
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「転法輪寺 (五條市)」の記事における「寺史」の解説
弘仁7年(816年)空海の開創。当時は犬飼山と称し、草庵は遍照庵と称し、川崎甚左衛門(法名道和法師)を住わせた。その後、遍照庵を転法輪寺と改め、空海の弟子杲隣大法師が住職となった。仁寿3年(853年)隣全法師の代に、犬飼山遍照院転法輪寺と改称した。その後、第30代住職、権大僧都実常のとき火災にかかり、空海の遺物大半焼失、降って、永正2年(1505年)本堂、庫裡再建、それより12代を経て、万治2年(1659年)大師堂および両明神の神殿を再建。14代を経て、大阿闍梨立弁の代に今の本堂を建立。昭和年間に護摩堂・地蔵堂・大教堂等が建設される。
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