実如の教団改革とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 実如の教団改革の意味・解説 

実如の教団改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 08:02 UTC 版)

享禄・天文の乱」の記事における「実如の教団改革」の解説

細川政元の死とその後2年間の亡命生活実如にとっては大きな打撃であった同時に教団維持するための守り姿勢固め重要性出てきた。そこで実如は寺の実務次男後継者となっていた円如自分同母弟で蓮如の6男にして円如の舅でもあった近江顕証寺伊勢願証寺両寺の住持兼ねていた蓮淳教団運営任せることにした。以後円如蓮淳実如意向受けて教団改革乗り出した。 まず蓮如著した御文」と呼ばれる文書の中から80通を選んで5帖に編集し宗門信条基本とした。続いて永正15年1518年)、新たな3法令定めた1つ目は俗に三法令」と呼ばれているもので、 武装合戦禁止 派閥徒党禁止 年貢不払い禁止 の以上3つであり、北陸各地門徒達から偶々病気治療のために上洛する蓮誓誓約書を託させて提出させた。 2つ目は新しい坊(寺)の建設禁止既存の坊の整理統合命じたもので、同時に寺号付与権利本山である本願寺法主のみが保持することになった。これにより寺の設置廃止全て本願寺統制下に置いた最後に16年定めた一門一家制」の制定である。これは従来一家衆」と呼ばれていた本願寺一族寺院の間に家格定めたことである。すなわち、 連枝 - 法主の子供・兄弟一門 - 連枝嫡男第二世代)。 一家 - 連枝次男以下と蓮如以前分かれた一族。「末の一家衆」とも。 これにより「親鸞御血の道」と呼ばれた直系継承する法主権限集約し、その藩屏たる連枝一門優位定められのであるこうした一連の改革一向一揆活動抑制し幕府各地大名他宗派との共存目的とするものでこれまでの政策大転換ともいえるものであった。 当然一連の改革対す末寺門徒一部反発もあった。永正15年朝倉氏によって越前追放されて加賀逃れていた本覚寺蓮恵が「三法令」の戦争禁止によって越前への帰還困難になる本泉寺蓮悟苦情申し立てて相論となったところ、蓮悟の上申で破門処分となり、続いて蓮淳先に実如退避した堅田本福寺明宗に不正ありと上申し破門処分となった(ただし、蓮淳場合には、別の意図により起こしたもので実際に本福寺冤罪であったとされている(詳細後述))。両寺院ともすぐに許されたものの、本福寺先代明顕は先の実如件のみならず、蓮如延暦寺によって京都追われた際にもこれを匿い、本覚寺先代光はその蓮如のために吉崎御坊建立してこれを迎え入れた人物であり、この2人功績なくして今日本願寺存在し得なかった。その息子達でさえも容赦なく破門し法主連枝権力信徒震え上がったという。 だが、永正18年1521年)に円如死去4年後の大永5年1525年)には実如死去してしまう。遺された円如遺児証如永正13年1516年生まれ実如死去10歳)の将来危惧した実如蓮淳蓮悟実円三河本宗寺実如の4男で現存していた唯一の男子)・慶(蓮綱嫡子)・顕誓誉の嫡子)の5人に証如への忠誠親鸞以来教義擁護既存政治宗教勢力との共存遺言した。そして、特に証如外祖父であり、5人中唯一の畿内在住であった蓮淳にはその後見と養護託した

※この「実如の教団改革」の解説は、「享禄・天文の乱」の解説の一部です。
「実如の教団改革」を含む「享禄・天文の乱」の記事については、「享禄・天文の乱」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「実如の教団改革」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「実如の教団改革」の関連用語

実如の教団改革のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



実如の教団改革のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの享禄・天文の乱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS