実如の教団改革
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細川政元の死とその後の2年間の亡命生活は実如にとっては大きな打撃であった。同時に教団を維持するための守りの姿勢を固める重要性も出てきた。そこで実如は寺の実務を次男で後継者となっていた円如と自分の同母弟で蓮如の6男にして円如の舅でもあった近江顕証寺・伊勢願証寺両寺の住持を兼ねていた蓮淳に教団運営を任せることにした。以後、円如と蓮淳は実如の意向を受けて教団の改革に乗り出した。 まず蓮如の著した「御文」と呼ばれる文書の中から80通を選んで5帖に編集し宗門信条の基本とした。続いて永正15年(1518年)、新たな3法令を定めた。1つ目は俗に「三法令」と呼ばれているもので、 武装・合戦の禁止 派閥・徒党の禁止 年貢不払いの禁止 の以上3つであり、北陸各地の門徒達から偶々病気治療のために上洛する蓮誓に誓約書を託させて提出させた。 2つ目は新しい坊(寺)の建設禁止と既存の坊の整理統合を命じたもので、同時に寺号付与の権利を本山である本願寺法主のみが保持することになった。これにより寺の設置廃止の全てを本願寺の統制下に置いた。 最後に翌16年に定めた「一門一家制」の制定である。これは従来「一家衆」と呼ばれていた本願寺の一族寺院の間に家格を定めたことである。すなわち、 連枝 - 法主の子供・兄弟。 一門 - 連枝の嫡男(第二世代)。 一家 - 連枝の次男以下と蓮如以前に分かれた一族。「末の一家衆」とも。 これにより「親鸞の御血の道」と呼ばれた直系が継承する法主に権限を集約し、その藩屏たる連枝・一門の優位が定められたのである。 こうした一連の改革は一向一揆の活動を抑制し、幕府や各地の大名、他宗派との共存を目的とするものでこれまでの政策の大転換ともいえるものであった。 当然一連の改革に対する末寺・門徒の一部の反発もあった。永正15年、朝倉氏によって越前を追放されて加賀に逃れていた本覚寺蓮恵が「三法令」の戦争の禁止によって越前への帰還が困難になると本泉寺蓮悟に苦情を申し立てて相論となったところ、蓮悟の上申で破門処分となり、続いて蓮淳が先に実如が退避した堅田本福寺の明宗に不正ありと上申して破門処分となった(ただし、蓮淳の場合には、別の意図により起こしたもので実際には本福寺は冤罪であったとされている(詳細は後述))。両寺院ともすぐに許されたものの、本福寺の先代明顕は先の実如の件のみならず、蓮如が延暦寺によって京都を追われた際にもこれを匿い、本覚寺の先代蓮光はその蓮如のために吉崎御坊を建立してこれを迎え入れた人物であり、この2人の功績なくして今日の本願寺は存在し得なかった。その息子達でさえも容赦なく破門した法主・連枝の権力に信徒は震え上がったという。 だが、永正18年(1521年)に円如が死去、4年後の大永5年(1525年)には実如も死去してしまう。遺された円如の遺児証如(永正13年(1516年)生まれ、実如死去時10歳)の将来を危惧した実如は蓮淳・蓮悟・実円(三河本宗寺、実如の4男で現存していた唯一の男子)・蓮慶(蓮綱の嫡子)・顕誓(蓮誉の嫡子)の5人に証如への忠誠と親鸞以来の教義の擁護、既存の政治・宗教勢力との共存を遺言した。そして、特に証如の外祖父であり、5人中唯一の畿内在住であった蓮淳にはその後見と養護を託した。
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