宇喜多秀家領
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宇喜多秀家は、天正9年(1581年)の父宇喜多直家の没後に遺領を継承し、それに先だって直家が信長への帰順を明らかにしていたことから、天正10年正月、織田信長より備前一国を安堵され、5月から6月にかけての備中高松城の戦いでは羽柴秀吉に加勢した。秀吉と毛利氏の領土画定交渉ののち、秀家は、本領としていた備前のほとんどと、毛利氏より割譲された備前児島郡、賀陽・都宇・窪屋の備中3郡、美作国を安堵された。のち赤穂郡ほか播磨3郡も得てあわせて57万4,000石を領した。 これは、大名領としては、徳川氏、毛利氏(九州の小早川と四国の安国寺含む)、上杉氏、前田氏(加賀84万石)、伊達氏(米沢72万石のち陸奥大崎58万石)、に次いで6番目の石高であり、常陸国の佐竹氏(55万石)、薩摩国・大隅国等を領する島津氏(56万石のち61万石)にほぼ匹敵する規模であった。 当初、宇喜多氏は備前上道郡の沼城(岡山市東区)を本拠とし、秀家もそこで生まれているが、天正元年(1573年)、父直家は備前の国人であった金光氏を滅ぼして石山にあった岡山城(岡山市北区)に遷った。金光氏時代の岡山城が小規模であったため、直家は城域を拡大して縄張をしなおし、石山、岡山、天神山の三山のある地に城下町を築いたが、後を継いだ秀家は、城地をさらに拡大して岡山城を修築し、旭川の流路を変更して岡山城下町を本格的に建設した。備前福岡(岡山県瀬戸内市)や備前児島(倉敷市)、美作などから商人を集め、領内の武士も城下町に集められた。
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