大御所へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 16:38 UTC 版)
翌1908年1月13日、文芸家協会に「小説『アルセーヌ・ルパン』がブカレストの新聞『ルーマニア』に無断転載された」との廉で、当該新聞を訴えるために協力を求める。また同時期より各国翻訳への営業活動をはじめる。1月17日、文芸家協会における功績により、「公教育と美術」の分野でレジオン・ド・ヌールのシュバリエ章を受章。2月10日、「ルパン対ホームズ」が出版。連載版から大幅な改訂がなされ、結末までもが変えられていた。この年の秋頃、演劇作家フランシス・クロワッセと共作していた戯曲「ルパンの冒険」の脚本が依頼者アベル・ドゥヴァルへ納品される。この四幕物の舞台は10月28日の最終リハーサルから爆発的な人気を見せ、長期的に上演を重ねる。11月より「Je sais tout」に「奇巌城」が「新アルセーヌ・ルパン懸賞」とともに連載開始。これについて、ルブランは「もう駄目だった。僕はもうアルセーヌ・ルパンから離れられなかった」と述懐している。「エトルタの針岩の中を穿つ」というアイデアのきっかけは今日も不明なままである。1909年3月28日、文芸家協会の総会でルブランは副会長(定数二名)に選出される。6月15日、「奇巌城」の単行本が発売される。11月8日、とある晩餐会に文芸家協会の代表として出席し、ロラン・ボナパルトに文学賞の設立を提案する。3月5日より「ジュルナル・デ・デバ」において「813」が連載開始。ガストン・ルルーとレオン・サジイを擁するライバル紙「ル・マタン(フランス語版、英語版)」に「ジュルナル・デ・デバ」が対抗する手段がルパンの連載であった。6月、「813」の単行本が発売される。初版は12,000部という当時としては強気な部数であり、それでも8月と12月には5千部づつ増刷された。10月28日より、ヴィクトール・ダグレとアンリ・ド・ゴルスが共作した舞台劇「アルセーヌ・ルパン対エルロック・ショルメス」がシャトレ座で1910年3月末まで上演され、大ヒットとなった。これは前年にルブランが二人と交わした契約に基づく作品であった。11月18日、ラフィットが新たに興した日刊紙「エクセルシオール」第三号にルブランの「ルパン物ではない」中篇「うろこ柄のピンクのドレス」が掲載された。ルパンは大あたりを取り、ルブランに作家としての名声と、経済的成功をもたらした。ドイルがホームズ物を飽くまで第三者の視点で描いたのに対し、ルブランは1907年発表の「怪盗紳士ルパン」の中で、自身をルパンの伝記作家として登場させている(「王妃の首飾り」、「ハートの7」)。 ドイルはホームズシリーズの成功に対してむしろ困惑し、犯罪小説で成功することを、より「尊敬に値する」文学的情熱から遠ざけるもので、生活を妨害されているようでさえあると感じていたともいわれている。同様にルブランも、もともと純文学・心理小説作家を志していた事もあり、犯罪小説・探偵小説であるルパンシリーズで名声を博する事に忸怩たるものがあったといわれる。ドイルがホームズをライヘンバッハの滝に落としたのと同様、ルブランも『813』(1910年)でルパンを自殺させている。「ルパンが私の影なのではなく、私がルパンの影なのだ」という言葉などにも、その苦悩の跡が見られる。その後は歴史小説『国境』(1911年)、モーパッサンの影響のある短編集『ピンクの貝殻模様のドレス』(1911年)、空想的な作風の『棺桶島』(1919年)、SFに分類される『三つの眼』(1919年、ファーストコンタクト・テーマ)、『ノー・マンズ・ランド』(1920年)などを発表。また1915年頃から映画公開と並行して発売される小説シネロマンという形態が生まれると、その執筆者に名を連ねた。 その後1920年『アルセーヌ・ルパンの帰還』にてルパンを復活させ、1927年には新しい探偵ジム・バーネットものを発表するが、このバーネットも実はルパンであることが後に明かされた。1930年代には文学界からも作家として高い評価を得るようになり、『ラ・レピュブリック』紙でフレデリック・ルフェーヴルから「今日の偉大な冒険作家のひとりである」「同時に純然たる小説家、正真正銘の作家である」と賞されている。1930年代には恋愛小説『裸婦の絵(L'image de la femme nue *これは絵じゃなく彫刻。裸婦像)』『青い芝生のスキャンダル』も執筆。小説の戯曲化にも意欲を注ぎ、1935年には『赤い数珠』を舞台化した『闇の中の男』が大成功を収めた。 晩年、「ルパンとの出会いは事故のようなものだった。しかし、それは幸運な事故だったのかも知れない」との言葉を残し、その自分の経歴も受け入れられるようになったとも見られ、『アルセーヌ・ルパンの数十億』(1939年)にいたるまで、ルパンシリーズを執筆する。 ルブランは1919年8月に文学への貢献(直接の理由は「国民的英雄・ルパン」の創造)によってレジオンドヌール勲章を授与され、1941年にペルピニャンのサン=ジャン病院で亡くなった。死因の一つ(直接のものではない)は肺うっ血。妹ジョルジェットの死を息子のクロードから伝えられたが、その時にはもう意識が無くなっていた。
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