国家主席として
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国家主席に就任した頃、金日成は諸外国との関係樹立に力を入れ、1972年4月から1973年3月までに49ヶ国と国交を結んだ。朝鮮半島の統一問題については、1972年5月から6月にかけて、南北のそれぞれの代表が互いに相手国の首都を訪れ、祖国統一に関する会談を持った。同年7月4日に統一は外国勢力によらず自主的に解決すること、武力行使によらない平和的方法を取ることなどを「南北共同声明」として発表した。しかし、対話は北朝鮮側から一方的に中断してしまった。 1977年7月3日、NHKの取材団が金日成へのインタビューを行う、7月13日に「金日成主席単独会見」として放送。 1980年代以降はそれまで頼みの綱だったソ連など共産圏からの援助が大きく減り、エネルギー不足が深刻になり、国内の食糧事情の悪化から大量の餓死者が出たと言われる。 1980年10月、第6回朝鮮労働党大会において金日成は「一民族・一国家・二制度・二政府」の下での連邦制という「高麗民主連邦共和国」創設を韓国側に提唱した。 1982年11月、錦繍山主席宮会議室で開かれた金日成、金正日、呉振宇、金仲麟の4名による秘密会議のなかで、金日成は「東京を火の海にするのがわれわれの任務」であると語った。これは、ソビエト連邦指導部のなかでもレオニード・ブレジネフが北朝鮮に攻撃兵器を渡すことに消極的であったのに対し、ユーリ・アンドロポフは第三次世界大戦勃発をも辞さない決意を北朝鮮に対し秘密電報で伝えてきたことを受けてのものであった。これに鼓舞された金日成は、韓国の後方基地にあたり、スパイ罪をもたない日本を軍事的に叩き、通常兵器で軍事的優位に立つ韓国を赤化しようと試みた。 1985年12月、北朝鮮は核拡散防止条約(NPT)に加盟。 1987年11月29日に起きた「大韓航空機爆破事件」は犯人の一人とされる金賢姫(キム・ヒョンヒ)の自白によって北朝鮮による犯行であるとされ、世界各国から北朝鮮という国に対する厳しい批判が強まった。 1991年4月19日には毎日新聞社訪朝団へのインタビューに応じた。 1991年9月17日には韓国と共に、国際連合に同時加盟する。 1991年10月5日に生涯最後の外遊である中国訪問で鄧小平から改革開放を迫られて帰国後の会議で羅津・先鋒経済貿易地帯の設置を決定する。 1991年12月6日、咸鏡南道の興南(フンナム)のマジョン公館で、韓国政府の許可なしに同年11月30日から中国政府が手配した北京首都国際空港経由で電撃訪朝していた統一教会(統一協会、世界基督教統一神霊協会)の教祖文鮮明と会談。金日成をサタンの代表として非難し、共産主義を神の敵として、その打倒に力を入れてきたことで有名な人物であるために世界を驚かせた(ただし、当時の統一教会は韓国大統領盧泰愚の北方外交に呼応して中国など共産圏で事業を手掛けており、北朝鮮との接触もその人脈から始まっている)。文鮮明はこの訪朝についてソ連東欧への「神主義」「頭翼思想」の布教や中国でのパンダ自動車事業を例に出して「私の勝共思想は共産主義を殺す思想ではなく、彼らを生かす思想、すなわち人類救済の思想」とする声明文を出した。会談では離散家族再会に取り組むこと、核査察を受けること、自由陣営国家からの投資を受け入れること、軍需産業を除外した経済事業に統一グループが参与すること、南北頂上会談を行うこと、金剛山開発の実地などについて合意した。文鮮明から35億ドル(約4400億円)もの支援を約束され、経済的な窮地を救われる。 1992年1月30日に北朝鮮政府は国際原子力機関(IAEA)の核査察協定に調印したが、早くも翌年3月には核拡散防止条約(NPT)を脱退し、1994年4月16日に金日成は西側メディアのインタビューで核開発を否定するも、1994年6月にはIAEAまで脱退して査察拒否を表明したため、核開発疑惑が強まった。これに危機感を覚えたアメリカは同年6月、元大統領ジミー・カーターを特使として北朝鮮へ派遣する。カーターとの会談で金日成は韓国大統領金泳三との南北首脳会談実施の提案を受け入れた。
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