出身国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 05:19 UTC 版)
ひと口に「お雇い外国人」とはいうものの、その国籍や技能は多岐に亘り、1868年(慶応4年/明治元年)から1889年(明治22年)までに日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の者の資料として、『資料 御雇外国人』、『近代日本産業技術の西欧化』があるが、これらの資料から2,690人のお雇い外国人の国籍が確認できる。内訳は、イギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人である。また期間を1900年までとすると、イギリス人4,353人、フランス人1,578人、ドイツ人1,223人、アメリカ人1,213人とされている。 1890年(明治23年)までの雇用先を見ると、最多数のイギリス人の場合は、政府雇用が54.8 %で、特に43.4 %が工部省に雇用されていた。明治政府が雇用したお雇い外国人の50.5 %がイギリス人であった。工部省の明治3年から明治20年までのお雇い外国人総数256人中238人がイギリス人である。大口雇用として、エドモンド・モレルをはじめとする鉄道建設技術者、リチャード・ブラントン他の灯台建設技術者、ヘンリー・ダイアー他の工部大学校教師団、コリン・マクヴェインの測量技術者があげられる。 アメリカ人の場合は54.6 %が民間で、教師が多かった。政府雇用は39.0 %で文部省が15.5 %、開拓使が11.4 %であるが、開拓使の外国人の61.6 %がアメリカ人であった(ホーレス・ケプロンやウィリアム・スミス・クラークなど)。 フランス人の場合は48.8 %が軍の雇用で、特に陸軍雇用の87.2 %はフランス人であった。幕府はフランス軍事顧問団を招いて陸軍の近代化を図ったが、明治政府もフランス式の軍制を引き継ぎ、2回の軍事顧問団を招聘している。のちに軍制をドイツ式に転換したのは1885年(明治18年)にドイツ帝国陸軍のクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル参謀少佐を陸軍大学校教官に任じてからである。また、数は少ないが司法省に雇用され、不平等条約撤廃に功績のあったギュスターヴ・エミール・ボアソナードや、左院でフランス法の翻訳に携わったアルベール・シャルル・デュ・ブスケなど法律分野で活躍した人物もいる。 ドイツ人の場合は政府雇用が62.0 %であり、特に文部省(31.0 %)、工部省(9.5 %)、内務省(9.2 %)が目立つ。エルヴィン・フォン・ベルツをはじめとする医師や、地質学のハインリッヒ・エドムント・ナウマンなどが活躍した。 オランダ人の場合、民間での雇用が48.5 %であるが、海運が盛んな国であったことから船員として働くものが多かった。幕府は1855年(安政2年)、長崎海軍伝習所を開設し、オランダからヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケらを招いたため海軍の黎明期にはオランダ人が指導の中心となったが、幕末にイギリスからトレーシー顧問団が招聘され(明治維新の混乱で教育は実施されず)、さらに明治新政府に代わってからは1873年(明治6年)にダグラス顧問団による教育が実施され、帝国海軍はイギリス式に変わっている。他に土木の河川技術方面でヨハニス・デ・レーケら多くの人材が雇用された(オランダの治水技術が関係者に高く評価された背景があるとされているが、ボードウィン博士兄弟との縁故による斡旋という説もある)。 イタリア人はその人数こそ多くなかったものの、工部美術学校にアントニオ・フォンタネージらが雇用された。またエドアルド・キヨッソーネが様々な分野で貢献した。
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