住民票コード以前の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:19 UTC 版)
「国民識別番号」の記事における「住民票コード以前の歴史」の解説
1970年(昭和45年)、第3次佐藤内閣(佐藤栄作首相)が「各省庁統一コード連絡研究連絡会議」を設置して省庁統一個人コードの研究を行い、1975年(昭和50年)の導入を目指したが、議論が頓挫した経緯がある。 1975年(昭和50年)、大蔵省(中央省庁再編後の財務省)と国税庁は、本人確認の手段がないことが利子配当課税の徴収における最大の問題点であるとして、1979年に向けた「昭和五十四年度の税制改正に関する答申」に「利子・配当所得の適正な把握のため、納税者番号制度の導入を検討すべきである」との導入検討意見を記していた。 大蔵官僚の内海孚は、国税庁官房企画課長時代から納税者番号制執行予算を国税庁に計算させており、内海が大蔵省主税局税制一課長になりそのまま流用することになったが、納税者番号に対する社会的反発が強く、非課税貯蓄の場合に限って番号を振り分けることに修正された。 1980年(昭和55年)3月、マル優とされた少額貯蓄非課税制度の仮名口座防止のためグリーンカード制度(少額貯蓄等利用者カード)導入が盛り込まれた所得税法の一部を改正する法律が、日本共産党を除いた賛成多数により可決して成立した。パチンコ屋などの中小企業主や政治家、金融機関は、「収入がガラス張りになる」「グリーンカード制なんてものができたら、先生(政治家)に献金できる裏金がなくなりますよ。それでもいいんですか」「グリーンカード制度は悪法だから、廃止するか、実施を延期することにしよう」との反対意見や抗議を相次ぎ唱え、議論紛糾の末に廃止法案提出が決定した。 自民党税制調査会長の山中貞則は「俺の目が黒いうちは、絶対に政府提案で廃止することはさせない」として最後まで抵抗していたが、自民党の実力者であった金丸信と銀行から、中曽根康弘を総理にする条件としてグリーンカード制廃止に同意するよう迫られて(山中は中曽根派の有力者である。)廃止法案の政府提出に同意せざる得なくなった。 マスメディアの全国紙は、読売新聞(当時の論説委員長は渡辺恒雄)、日本経済新聞(当時の論説委員長は鶴田卓彦)がグリーンカード制に反対し、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞などは、税の公平という観点から賛成していた。
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