伊賀転封後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 08:32 UTC 版)
天正13年(1585年)閏8月、秀吉は領国内の大規模な国替えを行い、畿内については羽柴一門・近臣で固める政策を実施した。この国替えで大和国には秀吉の弟・羽柴秀長が入国し、代わって定次は領国を大和国から伊賀国上野に移封された。 江戸時代の編纂物『増補筒井家下記』には定次は伊賀一国12万石・伊勢国の内で5万石・山城国の内に3万石の計20万石を与えられており、一方、移封前の大和44万石の内で与力を除いた筒井氏の純所領は18万石であり、伊賀国への移封は、2万石の加増であったとされている。また伊賀国は関東に対しての備えとしての役割を持つ街道の要衝であり、そのような重要な土地に定次を配置したことは、秀吉が定次を評価し、一定以上の信頼を寄せていたことの証左と考えることができるとする。 伊賀移封に伴い、定次は伊賀上野城を築城した。また、秀吉から羽柴姓を名乗る事を許され、従五位下伊賀守に任命された。 天正14年(1586年)、灌漑用水を巡って中坊秀祐と島左近の間で争いが起こり、定次が秀祐に有利な裁定を下した事で、憤慨した左近が筒井家を去るという事件が起こる。筒井家を去った左近は石田三成に仕えた。松倉重政、森好高、布施慶春といった有力家臣達も前後して筒井家を去っている。その背景には、秀祐らの台頭と専断があった。定次には、彼らを完全に抑制するだけの力量はなかったとも推測される。 同年の九州征伐では、伊賀国の留守を十市新二郎に任せ、1,500の手勢を率いて出陣、豊臣秀長の部隊に所属し、日向高城攻めなどで活躍する。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。天正18年(1590年)の小田原征伐では韮山城攻めに参加した。天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも手勢3,000を率いて出陣し、肥前名護屋に詰めて、朝鮮に渡航していない。朝鮮の役の最中、顕著な武功を立てた加藤清正に称賛の使者を送った事や、名護屋で酒色に溺れ、中坊秀祐を憂慮させたことなどが『和州諸将軍伝』に記述されている。同書の記述によると、定次は病を得、秀吉の承諾を得て城詰の途中で途中伊賀国へ帰国した。
※この「伊賀転封後」の解説は、「筒井定次」の解説の一部です。
「伊賀転封後」を含む「筒井定次」の記事については、「筒井定次」の概要を参照ください。
- 伊賀転封後のページへのリンク