人権擁護法案廃案後の議論
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「人権擁護法案」の記事における「人権擁護法案廃案後の議論」の解説
廃案後も、政府・与党では引き続き法案の検討が行われ、報道機関を特別救済の対象としないことなどの修正を加えた上で、再提出が試みられた。2005年(平成17年)2月には、政府・与党が前回の法案に一部修正を加えた上で、同年の第162回国会(常会)に再提出する方針を一旦固めた。しかし、法案について議論・検討した自民党法務部会での議事進行が、法案推進派の古賀誠・元自民党幹事長らによって強引に行われたとして、法案慎重派の平沼赳夫(法案に反対する真の人権擁護を考える懇談会会長)、亀井郁夫、城内実、衛藤晟一らから反対意見が噴出した結果、党執行部は同年7月に法案提出を断念した。産経新聞、日本文化チャンネル桜などのメディアや、西村幸祐、櫻井よしこ、西尾幹二などの文筆家、インターネット上のブログや掲示板でも、この動きに同調して、反対運動が活発化した。このときには、「人権侵害」の定義が曖昧であること、人権擁護委員に国籍要件がないこと、人権擁護委員の推薦候補者として「その他人権の擁護を目的とし、又はこれを支持する団体の構成員」を挙げたことなどを主な反対理由としていた。 2005年3月には「救う会」が「北朝鮮による日本人拉致問題の解決の妨げになる」として法案成立に反対する声明を出し、日本文化チャンネル桜などのメディアや西村幸祐、櫻井よしこ、西尾幹二ら識者、民主党の保守系議員にもこれに同調する意見が出るようになった。 部落解放同盟は同和立法の期限切れに伴う代替法として人権擁護法案の成立を強く推進している。特に朝日新聞社に成立を促すよう強く働きかけを行っており、2005年(平成17年)の通常国会時は専務取締役の坂東愛彦や社会部の本田雅和などが同調し、紙面の論調に反映された。同紙の社説では、特定の国や団体の影響が強まるのではないかという批判や、人権擁護委員から外国人を締め出すため、国籍条項を加えるよう求める声が高まっていることに対して、「だが、心配のしすぎではないか」と一蹴した。 また自民党と連帯している保守系同和団体であり、自民党の友好団体にも登録されている自由同和会も解放同盟と同じく人権擁護法案の成立に向けた活動を活発に行っている。自由同和会の平成28年度運動方針の文中では「同和問題をはじめとするあらゆる人権問題の被害者を簡易・迅速・柔軟に救済する「人権擁護法案」の成立を求めて運動を展開してきたが、広汎な人権問題を包含する「人権擁護法案」は現況では困難であると判断し、未だに完全解決に至っていない同和問題を解決するために、「人権擁護法案」の関連法として、当面は同和問題に特化した個別法の成立を求めて行く。」と述べられている。 一方、野党・民主党は、2005年(平成17年)7月の自民党執行部の法案提出断念を受け、同年8月1日、対案となる人権侵害による被害の救済及び予防等に関する法律案(人権侵害救済法案。衆法第33号。)を第162回国会(常会)に提出した。同法案は、同年8月8日のいわゆる郵政解散により審議未了廃案となっている。 この後に行われた第44回衆議院議員総選挙では、郵政民営化法案に反対した議員には、自民党執行部から刺客が送り込まれるなど、自民党議員の構成が大きく変わった。それに伴って、人権擁護法案の推進派・慎重派双方の自民党内における構成も変動した。慎重派の中心となっていた議員には郵政民営化法案にも反対していた議員が多かったため、刺客を送り込まれた城内、衛藤などが落選し、平沼、古屋圭司、古川禎久が自民党を離党するなど、法案慎重派は自民党内での影響力を低下させた。一方、法案推進派の中心となっていた古賀も、郵政民営化法案の衆院採決で棄権したため、党の戒告処分を受けて自民党人権問題調査会長を退き、自見庄三郎、熊代昭彦らは刺客に敗れて落選するなど、同じく自民党内での影響力を低下させた。また、郵政民営化法案に賛成した議員も、入閣したために党内の法案審議から距離を置き、人権擁護法案に関する議論自体が低調になった。 総選挙後、小泉純一郎・内閣総理大臣は「政府与党内でさらに検討を進め、被害者の実効的な救済を図る人権擁護法案をできるだけ早期に提出できるよう努めていく」と答弁(2005年(平成17年)9月29日の参議院本会議における、民主党の神本美恵子による人権問題に関する質問に対する答弁) するなど、法案の再提出を目指す動きは続いた。 この頃、鳥取県では、独自の人権擁護制度を創設する鳥取県人権侵害救済推進及び手続に関する条例案の審議が行われていた。同条例案は、人権擁護法案を参考にして作成され、2005年(平成17年)9月の可決成立前後には、県内外に大きな反響を巻き起こした。結果、翌2006年(平成18年)3月には同条例の施行を無期限に停止することが決まり、2009年(平成21年)4月1日に施行されないまま廃止された。 2006年(平成18年)9月、人権擁護法案に対して慎重な姿勢を取っていた安倍晋三が内閣総理大臣に就任し、法案再提出への動きはさらに下火となった。新任の法務大臣・長勢甚遠も、「状況をよく精査し、対応を考えたい」として、これに同調した。また、郵政解散後に自民党を離れていた衛藤ら法案慎重派の一部を復党させるなど、安倍に考えの近い議員を自民党内へ再び取り込む方策もとられた。 2007年(平成19年)9月に、安倍晋三が内閣総理大臣を辞任したことにより、法案提出への動きが再開された。自民党選対委員長に就任し、新たに党四役として重みを増した古賀は、「人権擁護法案は選挙に有利に働く。次期衆院選挙に向け必要な法案だ」 として、2008年(平成20年)の第169回国会(常会)への法案再提出を目指した。また、古賀派の太田誠一・衆院議員を自民党人権問題等調査会の会長に据え、山崎拓、青木幹雄らとも、法案の成立に向けて連携を取り始めた。これに対して、稲田朋美を中心とした党内若手の保守系議員は、伝統と創造の会などの勉強会を通じて連携を図り、同法案に反対していくことを明確にした。
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