二世皇帝に即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:23 UTC 版)
始皇帝の末子であり、始皇帝から寵愛を受けていた。 胡亥の年齢は、『史記』始皇本紀では、二世元年(紀元前209年)の皇帝即位の年に21歳であり、紀元前230年生とするが、『史記』始皇本紀に附された『秦記』では同年12歳であり、紀元前221年生としている。 日本の歴史学者である鶴間和幸は「『史記』のなかで、胡亥自身が趙高に向かって「朕は年少で(略)」とこぼす場面があり、趙高も胡亥に「いま陛下は春秋に富んでいる」といい(略)。古代では十代やそれ以下の年齢で皇帝に即位したときには、臣下は皇帝に向かって年少というのをはばかり、「春秋に富む」という婉曲的な表現を用いた。前漢では(略)少年皇帝に使用された表現で、21歳の青年皇帝にいうものではなかった」とみなし、胡亥が12歳(紀元前221年)で即位したことを前提にして論じている。 始皇帝には二十数人男子がいたとされる が、また、姚氏は隠士が遺した章邯の書物にある「李斯は17人の兄を廃して、(胡亥)を二世皇帝として、今の王として擁立した」とする記録から、始皇帝の18番目の男子であると推測している。 始皇37年(紀元前210年)10月、父の始皇帝が5回目の巡幸に出た際、左丞相の李斯は始皇帝がお供となり、右丞相の馮去疾が留守を任された時、胡亥は巡幸のお供となることを願い、始皇帝に許され、巡幸に同行することになった。 巡幸中に始皇帝は発病し、ますます病は重くなった。そこで、胡亥の長兄にあたる公子の扶蘇へ、皇帝の印を捺した「(始皇帝の)喪を(秦の都である)咸陽で迎えて、葬儀を行え」という内容の文書を作り、与えることにした。皇帝の印が捺された文書は封印がされ、中車府の令(長官)であり、符璽(皇帝の印)を扱う事務を行う趙高のところにあり、まだ、使者には授けられていなかった。 同年7月、始皇帝は巡幸中に、沙丘の平台宮で崩御した。 左丞相の李斯は、始皇帝が都の外で崩御し、諸々の公子や天下の者が変事を起こすことを恐れて、このことを秘密にし、喪を発表しなかった。始皇帝の死は、胡亥と趙高、信任されていた宦者 5,6人が知るのみであった。胡亥はかつて、趙高から書や獄律・令法を教わったことがあり、ひそかに信任していた。 胡亥は趙高から、「上(始皇帝)が崩御し、諸々の公子を王に封じるという詔はなく、長子(扶蘇)に賜う文書があるだけです。長子が戻られれば、皇帝に即位されるでしょう。しかし、その他の公子にはわずかな土地も与えられません。どうなさいますか?」と問われた。胡亥は答えた。「当然のことである。私は、『知恵が明るい君は己の臣を知り、知恵が明るい父は子を知る』という言葉を知っている。父が諸々の公子を王に封じないという命令をお出しになったのであるから、何か口を挟むことがあろうか!」。そこで、趙高は、「そうではありません。今、天下の権力の存亡については、あなたとこの趙高、そして、丞相の李斯にかかっています。あなたには熟考していただきたいと思います。人を臣下とすることと人の臣下になること、人を制すことと人に制されること、同じように語れましょうか」と語った。胡亥は、「兄を廃して、弟が(帝位に)立つ。これは不義である。父の詔を奉ぜずに、死を畏れる。これは不孝である。能力と才能が足らないのに、強いて他人の働きに頼る。これは不能である。三者は徳に逆らう。天下は服さず、身は危うくなり、社稷は続かないであろう」と反論する。趙高は重ねて語った。「殷の湯王や周の文王が主(夏の桀王・殷の紂王)を殺害し、天下の人々は殷の湯王や周の文王の義を称えました。大事をなす時は、小さい事にはこだわらないものです。小さな事を顧みて、大きな事を忘れてしまうと、後に必ず害があるのです。疑ってためらっていれば、必ず後悔することになります。決断して実行すれば、鬼神も避けていき、成功するでしょう。どうか、このこと(始皇帝の詔の内容を偽り、扶蘇を廃して、胡亥が太子として立つこと)を成し遂げていただきますように!」。胡亥は嘆息して言った。「今、天子(始皇帝)の崩御は発表されておらず、喪の礼はまだ終わっていない。どうして、このことを丞相(李斯)に求めることができようか」。趙高は「時です。時なのです。図っている猶予はありません。時機に遅れをとることを恐れるだけです」と答える。 ついに、胡亥は「始皇帝の詔の内容を偽り、扶蘇を廃して胡亥が太子として立つ」という趙高の謀略に同意した。 この後、趙高は、李斯を説得した。扶蘇が即位すれば、扶蘇に親しい将軍の蒙恬が丞相となり、李斯や李斯の一族の立場も危ういと吹き込まれた李斯もこの謀略に同意し、仲間に加わることとなった。胡亥は、趙高から「私が太子(すでに胡亥をそのように称している)のご命令を奉じて、丞相にお伝えしてきました。丞相の李斯がご命令を奉じないことがありましょうか」という報告を受けた。 日本の歴史学者である藤田勝久はこのことから、胡亥の母について、「よくわからないが、少なくとも扶蘇とはちがう母の生まれで、趙のバックアップを受けたことは間違いない。なぜなら趙高は、戦国趙の一族でもあったし、始皇帝が亡くなった沙丘の平台は、戦国趙の離宮だったからである。そこで沙丘の陰謀には、かつての趙の勢力が控えており、そのため李斯はどうすることもできなかったのであろう」と論じている。 そこで、三人はともに謀議して、始皇帝の詔を偽り、胡亥は、丞相の李斯によって太子として立てられた。さらに、(始皇帝の詔と偽り)、使者を送って、長子の扶蘇と蒙恬のもとに、扶蘇と蒙恬の数々の罪状を書かれた書状を賜い、二人に死を賜った。扶蘇はすぐに自殺したが、蒙恬は疑って再度、勅命を願った。使者は、蒙恬を官吏に捕らえさせた。 胡亥はすでに扶蘇が自殺したと聞いて、蒙恬を許すことを望んだ。趙高は、蒙恬の弟である蒙毅が法で裁き、死罪にしようとしていたことを恨んでいた。また、蒙氏(蒙恬・蒙毅)が胡亥に用いられて、自分に恨んでいることを恐れていた。そこで、趙高は胡亥に進言した。「先帝(始皇帝)は、長い間、すぐれた人物を挙げて太子(胡亥)を立てようと望まれていました。しかし、蒙毅が反対していたのです。これは不忠にして、主君を惑わすものです。誅殺するに越したことはありません」。胡亥はこれを聞いて、蒙恬は陽周に、蒙毅を代に獄につないだ。 胡亥が咸陽に着くと、始皇帝の死を発表し、太子である胡亥は即位し、二世皇帝となった。
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