中華民国期
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1911年の辛亥革命の勃発により、巡撫、イリ将軍、参賛大臣といった清朝の政治機構は廃止され、漢人の袁大化が新疆都督に任命されたが、イリの哥老会の圧力に恐れをなし、政治経験と軍事力を持つ楊増新が新たに省長として実権を握った。省長の下には、四庁一署(民生庁、財政庁、教育庁、建設庁、外交署)と呼ばれた行政機関が設置され、主として漢人官僚がそのポストを占めた。楊増新は軍の最高司令官である辺防督弁を兼任し、楊増新の暗殺後に新疆の実権を握った金樹仁も、省政府と軍のポストを兼任し、新疆を独裁的に統治した。 1933年にクーデターで金樹仁が失脚すると、盛世才が辺防督弁として実権を握った。初期の盛世才政権では、省政府の要職にはソ連の支援を受けたムスリム住民の有力者が任命され、政府の各部門にはソ連より派遣された要員が顧問として配置された。盛世才は、1937年にソ連要員を追放して、中国共産党に接近したが、1944年に失脚し、中国国民党の呉忠信が省政府主席となった。 中国国民党は、ソ連を仲介にして、1944年以来天山山脈以北を実効支配していた東トルキスタン共和国政権と交渉を行い、1947年に両者の合同による新疆省連合政府が発足した。新政権は1年で瓦解し、天山山脈以北は再び旧共和国政権の実効支配下に戻された。 1949年に国共内戦が終結すると、アフメトジャン・カスィミらイリの旧共和国系勢力と、ブルハン・シャヒディら省政府の国民党系勢力は、それぞれ中国共産党への合流を表明した。人民解放軍は、1949年9月にウルムチに、12月にはイリに進駐し、新疆省は中国共産党の支配下に入った。省政府主席には、国民党のブルハンが留任した。 1955年には、新疆省に民族区域自治が適用され、新疆ウイグル自治区が成立した。
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中華民国期
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清朝が滅亡して中華民国が成立すると、ジャフリーヤは反清であったという理由で130年にわたる禁教を解かれた。1911年に沙溝門宦の第7代ムルシドとなった馬元章は、1919年に馬明心の殉教地である蘭州へ向かった。政府軍の護衛を受けて蘭州へ到着した馬元章一行は官吏に出迎えられ、蘭州へ入ったジャフリーヤは馬明心のゴンバイを建立した。その後1920年に馬元章は海原大地震で死亡し、沙溝門宦の第8代ムルシドには馬震武が就任した。 1939年、寧夏南部で国民党の役人がイスラームを侮辱する事件が起こり、馬国瑞を首領としてジャフリーヤが蜂起した。反乱は3年余り続いたがジャフリーヤは敗れ、一部は共産党の支配地域に逃れた。毛沢東はジャフリーヤの反乱軍と面会し、ジャフリーヤが圧迫された階級であり、この反乱も階級闘争であるとしてこれを歓迎した。ジャフリーヤに対し毛沢東は次のように語ったとされる。 「 以前、あなたたちはいろいろな戦いを通じても、勝利することができなかった。私たちにあなたたちを助けさせてください。 」 —毛沢東(より)
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中華民国期
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1918年の末、それまで北洋政府中央で政権闘争を繰り返す安徽派・直隷派等の軍閥と一定の距離を保ちつつ力を蓄えていた張作霖が安福国会の末に東三省巡閲使に就任する。中国東北部を手中に収めた張作霖の奉天派は日本の支援もあって急速に軍備を拡大する。しかし奉天軍を指揮する将官は圧倒的に不足しているため、1919年2月に『奉天派のための軍官学校』として奉天陸軍講武堂に改称した上で再度開校される。また翌年には、東三省陸軍講武堂と改称された。張作相を堂長に、熙洽を教育長とした。孫旭昌を総隊長として学員4個区隊が編成された。郭松齢はかつてここで教官をしていた。1920年ごろ、郭松齢の提言により、将兵の中でも特に秀でた者の選抜育成のため、軍官教育班・軍官教導団および軍士教導隊を設置。 1924年の第2次奉直戦争によって張作霖の奉天派は北京政府中央に進出するまでに成長した。だが教育機関としての東三省陸軍講武堂は年間400名程度を輩出するほどの規模でしかなく、奉天軍の現場から見れば圧倒的に士官不足の状態にあった。そこで1927年6月、張作霖は北京黄寺に講武堂の分校を創設した。 1927年6月、張作霖が北京政府を掌握し安国軍政府を組織し、奉天軍は名実ともに東三省だけの軍閥ではなくなると、同年9月に東三省陸軍講武堂は東北陸軍講武堂に改称された。さらに張作霖が陸海軍大元帥に就任した後の1928年3月には「東北」の文字を削除して陸軍講武堂にまで改称した。6月、安国軍第3・4方面連合軍団陸軍高等军事研究班を管轄下に置く。 1928年6月4日、国民党軍に敗れて奉天に落ち延びようとした張作霖が爆殺される(張作霖爆殺事件)。北京を失った奉天派は張学良が継承し、陸軍講武堂は再び東北講武堂に改称される。また9月、奉天派の軍事教育機構を統一するために元々の東北講武堂を小東辺門より東大営に移転し「東北講武堂遼寧本校」とし、黒竜江・熱河に相次いで分校を創設した。 1931年9月18日からの満州事変により関東軍との武力衝突が発生する。既に1928年12月の段階で易幟によって国民党と和解していた張学良は10月下旬までの間に東北講武堂を北京に移転させる。だが11月上旬、講武堂から「眼前の困難により再開の目途は立たない。東北講武堂は閉鎖とする。学生は全員卒業とし、原隊に復帰せよ」という宣言が発せられる。事実上の東北講武堂の消滅である。 現在、敷地4000平方メートルのうち伝統的な青磚瓦房様式の正門など主要建物730平方メートルが現存し、東北陸軍講武堂旧址紀念館として開館している。
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