中華民国期とは? わかりやすく解説

中華民国期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/28 17:06 UTC 版)

新疆省」の記事における「中華民国期」の解説

1911年辛亥革命勃発により、巡撫イリ将軍、参賛大臣といった清朝政治機構廃止され漢人袁大化新疆都督任命されたが、イリ哥老会圧力恐れをなし、政治経験軍事力を持つ楊増新新たに省長として実権握った。省長の下には、四庁一署(民生庁、財政庁、教育庁建設庁、外交署)と呼ばれた行政機関設置され主として漢人官僚がそのポスト占めた楊増新は軍の最高司令官である辺防督弁を兼任し楊増新暗殺後新疆実権握った金樹仁も、省政府と軍のポスト兼任し新疆独裁的に統治した1933年クーデター金樹仁失脚すると、盛世才辺防督弁として実権握った初期盛世才政権では、省政府要職にはソ連支援受けたムスリム住民有力者任命され政府各部門にはソ連より派遣され要員顧問として配置された。盛世才は、1937年ソ連要員追放して中国共産党接近したが、1944年失脚し中国国民党呉忠信が省政府主席となった中国国民党は、ソ連仲介にして、1944年以来天山山脈以北実効支配していた東トルキスタン共和国政権交渉行い1947年両者合同による新疆省連合政府発足した新政権1年瓦解し天山山脈以北は再び旧共和国政権実効支配下に戻された。 1949年国共内戦終結すると、アフメトジャン・カスィミイリ旧共和国勢力と、ブルハン・シャヒディら省政府国民党勢力は、それぞれ中国共産党への合流表明した人民解放軍は、1949年9月ウルムチに、12月にはイリ進駐し、新疆省中国共産党支配下入った。省政府主席には、国民党のブルハンが留任した1955年には、新疆省民族区域自治適用され新疆ウイグル自治区成立した

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中華民国期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:11 UTC 版)

ジャフリーヤ」の記事における「中華民国期」の解説

清朝滅亡して中華民国成立すると、ジャフリーヤは反清であったという理由130年にわたる禁教解かれた。1911年に沙溝門宦第7代ムルシドとなった馬元章は、1919年馬明心殉教地である蘭州向かった政府軍護衛受けて蘭州到着した馬元章一行は官吏出迎えられ蘭州入ったジャフリーヤ馬明心のゴンバイを建立したその後1920年馬元章は海原大地震死亡し、沙溝門宦第8代ムルシドには馬震武が就任した1939年寧夏南部国民党役人イスラーム侮辱する事件起こり、馬国瑞を首領としてジャフリーヤ蜂起した反乱3年余り続いたジャフリーヤ敗れ一部共産党支配地域逃れた毛沢東ジャフリーヤ反乱軍面会しジャフリーヤ圧迫され階級であり、この反乱階級闘争であるとしてこれを歓迎したジャフリーヤ対し毛沢東次のように語ったとされる。 「 以前あなたたちいろいろな戦い通じても、勝利することができなかった。私たちあなたたち助けさせてください。 」 —毛沢東(より)

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中華民国期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 15:45 UTC 版)

東北陸軍講武堂」の記事における「中華民国期」の解説

1918年の末、それまで北洋政府中央政権闘争繰り返す安徽派直隷派等の軍閥一定の距離を保ちつつ力を蓄えていた張作霖安福国会の末に東三省巡閲使に就任する中国東北部手中に収め張作霖奉天派日本の支援もあって急速に軍備拡大する。しかし奉天軍を指揮する将官圧倒的に不足しているため、1919年2月に『奉天派のための軍官学校』として奉天陸軍講武堂改称した上で再度開校される。また翌年には、東三省陸軍講武堂改称された。張作相を堂長に、熙洽教育長とした。孫旭昌を総隊長として学員4個区隊編成された。郭松齢はかつてここで教官をしていた。1920年ごろ、郭松齢提言により、将兵中でも特に秀でた者の選抜育成のため、軍官教育班軍官教導団および軍士教導隊設置1924年第2次奉直戦争によって張作霖奉天派北京政府中央進出するまでに成長した。だが教育機関として東三省陸軍講武堂年間400程度輩出するほどの規模でしかなく、奉天軍の現場から見れば圧倒的に士官不足の状態にあった。そこで1927年6月張作霖北京黄寺講武堂の分校創設した1927年6月張作霖北京政府掌握し安国軍政府組織し奉天軍は名実ともに東三省だけの軍閥ではなくなると、同年9月東三省陸軍講武堂東北陸軍講武堂改称された。さらに張作霖陸海軍大元帥就任した後の1928年3月には「東北」の文字削除して陸軍講武堂にまで改称した6月安国第3・4方面連合軍陸軍高等军事研究班管轄下に置く。 1928年6月4日国民党軍敗れて奉天落ち延びようとした張作霖爆殺される(張作霖爆殺事件)。北京失った奉天派張学良継承し陸軍講武堂は再び東北講武堂改称される。また9月奉天派軍事教育機構統一するために元々の東北講武堂を小東辺門より東大営に移転し東北講武堂遼寧本校」とし、黒竜江熱河相次いで分校創設した1931年9月18日からの満州事変により関東軍との武力衝突発生する。既に1928年12月段階易幟によって国民党和解していた張学良10月下旬までの間に東北講武堂北京移転させる。だが11月上旬講武堂から「眼前困難により再開目途立たない東北講武堂閉鎖とする。学生全員卒業とし、原隊復帰せよ」という宣言が発せられる事実上東北講武堂消滅である。 現在、敷地4000平方メートルのうち伝統的な青磚瓦房様式正門など主要建物730平方メートル現存し東北陸軍講武堂旧址紀念館として開館している。

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