中村改革
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2000年(平成12年)6月 : 松下電器産業の社長に就任した中村は、「破壊と創造」をスローガンに、聖域無き松下電器の構造改革に取り組んだ。 2001年(平成13年)4月 : 国内家電営業体制の改革に続き、松下電器が創業以来初めて組織名に「マーケティング」の名を冠した「パナソニックマーケティング本部」と、「ナショナルマーケティング本部」を設置(現在は、「デジタルAVCマーケティング本部」、「アプライアンス・ウェルネスマーケティング本部」の2本部体制)し、本部を大阪ではなく、情報の集積地たる東京(現在は2本部とも御成門に集約)に置く。また、同時期にかつてフィリップス(蘭)との合弁会社であった「松下電子工業株式会社(現・パナソニック(株)セミコンダクター社・ライティング社)」を吸収合併する。 2002年(平成14年) : 2003年(平成15年)に、「松下通信工業株式会社」「九州松下電器株式会社」「松下寿電子工業株式会社」「松下精工株式会社」と、非上場の「松下電送システム株式会社」の5社を株式交換により完全子会社化させる。その後、松下通信工業株式会社は、パナソニック モバイルコミュニケーションズ株式会社の他、松下電器産業株式会社のパナソニックオートモーティブシステムズ社・パナソニックシステムソリューションズ社・ヘルスケア社(後にパナソニック四国エレクトロニクス株式会社に統合)などに分割。九州松下電器株式会社と、松下電送システム株式会社はパナソニック コミュニケーションズ株式会社へ統合、松下寿電子工業株式会社は2005年(平成17年)4月に、パナソニック四国エレクトロニクス株式会社へ社名変更(2007年〈平成19年〉4月に松下電器産業株式会社ヘルスケア社を統合)、松下精工株式会社は松下エコシステムズ株式会社(現・パナソニック エコシステムズ株式会社)へ社名変更を行い、重複事業の効率化を図った。 2002年(平成14年)9月 : 松下グループの総合情報受発信拠点としての役割を果たすべく、東京都江東区有明に「パナソニックセンター」を設立(後に「パナソニックセンター東京」へ改称)。 2003年(平成15年)4月1日 : 系列店制度を大改革。幸之助が築き上げた共存共栄を180度覆し、全てのパナソニックショップ(旧・ナショナルショップ)1万8千店を一律平等に支援せず、売り上げを増やす意欲のある店のみに絞って(厳選・抽出のうえ)販促支援する「スーパープロショップ(SPS、現:スーパーパナソニックショップ)」制度を立ち上げる。同年5月、グローバルブランドを「Panasonic」に統一し、ブランドスローガンを「Panasonic ideas for life」とした第二の創業に踏み出す。この時点で「National(ナショナル)」は地域特定ブランドとして存続していた。 2004年(平成16年)4月 : 長い間、兄弟会社としてライバル関係にあった松下電工株式会社をTOBにより連結子会社化する。その後松下電工は2008年(平成20年)10月にパナソニックとともにパナソニック電工に商号変更、2011年(平成23年)4月にパナソニックがTOBと株式交換により完全子会社化、2012年(平成24年)1月パナソニックに吸収合併され解散した。 2006年(平成18年)8月 : 子供たちの理数離れに危機感を抱き、工業国ニッポンとしての産業の衰退を避けるため、子供たちに理数の楽しさをアピールするべく「パナソニックセンター東京」内に「リスーピア」を設立させる。 パナソニック株式会社相談役の他、日本経団連副会長、道州制推進委員長、新日本様式協議会理事長などを務めた。 2000年(平成12年)6月の社長就任以来、代表取締役社長および会長として構造改革に継続して取り組んだが、「聖域なき構造改革」を謳いながら、韓国サムスン電子などとの競争激化や地デジ化完了により需要が大きく落ち込むことが予想されたテレビ事業には「付加価値によって競争力は十分確保できる」などとして長期間手を付けず、兵庫県尼崎市に大規模なプラズマディスプレイ工場を新設するなど、過剰な設備投資を行った。また商品開発や改良に必要な研究費までも設備投資に回されたことによって技術者が大量流出、技術力の後退も招いた。2011年(平成23年)10月の2012年(平成24年)3月期第2四半期決算報告の席上でようやく尼崎プラズマディスプレイ工場の大幅縮小などテレビ事業の構造改革が発表されたが、既に通期赤字が予想されていたところに構造改革費用を積み増したことで損失が膨らみ、同期決算はパナソニック(松下電器)創業以来最大となる7,200億円の赤字となった。改革初年度にあたる2001年(平成13年)3月期の赤字額を大幅に上回るが、業績回復を次期経営陣に丸投げする形で相談役に退いた。社長、会長時代に、自らの意に沿わない役員を徹底排除した結果、周囲がイエスマンだらけになったことがこれほどの凋落を生み出した原因であるとも言われている。 パナソニックは2012年(平成24年)から2年連続で計1兆5,000億円近くの最終赤字を計上しており、一部からは「戦犯中の戦犯」「人間として劣化した経営者」との批判がされている。
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