中川英造とは? わかりやすく解説

中川英造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/31 07:41 UTC 版)

なかがわ えいぞう

中川 英造
生誕 (1908-03-23) 1908年3月23日
広島県
死没 (1999-10-14) 1999年10月14日(96歳没)
死因 急性肺炎
国籍 日本
出身校 東京商科大学
職業 実業家
テンプレートを表示

中川 英造(なかがわ えいぞう、1908年(明治41年)3月23日 - 1999年(平成11年)10月14日)は、日本の実業家。朝日新聞社で業務部門を歩み、代表取締役専務を経てテレビ朝日第7代社長。広島県出身。

経歴

1930年(昭和5年)東京商科大学(現一橋大学)本科卒業後、東京朝日新聞社入社。大学時代は、漕艇部に所属し、のちに日本漕艇協会(現日本ローイング協会)の顧問なども務めた。

庶務、販売、会計各部長、業務局次長、経理総務などを歴任。1959年(昭和34年)2月には、新設の北海道支社の初代支社長となり、翌年取締役となる。1963年の村山事件の折には、矢島八洲夫横田武夫らともに辞表を提出し、業務関係の役員不在という異常事態に陥るが、村山長挙が社長を辞任したことで同事件は収束し復職した。

1964年(昭和39年)2月常務、1967年8月専務、1974年相談役。

テレビ朝日社長

1975年(昭和50年)5月、NET(現・テレビ朝日)副社長となり、1981年6月、高野信の後継として社長に就任した。日本の不参加によって、独占中継権を獲得したモスクワオリンピック中継の価値が暴落し、ダメージを負っていた同社の難しい舵取りを任された。1983年(昭和58年)6月、後任の田代喜久雄に道を譲り相談役に退く。この他、系列局の北海道テレビ放送の取締役も務めた[1]

1999年10月、急性肺炎のため91歳で死去。

脚注

  1. ^ 北海道新聞 朝刊 (北海道新聞社): P3. (昭和56年6月23日). 

参考文献

  • 全国朝日放送株式会社総務局社史編纂部 編『テレビ朝日社史 : ファミリー視聴の25年』全国朝日放送、1984年2月1日。NDLJP:12276014 
  • 『朝日新聞社史 昭和戦後編』朝日新聞社、1994年。 




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中川英造」の関連用語

中川英造のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中川英造のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの中川英造 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS