三河松平氏が世良田氏後裔を称した経緯
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「世良田氏」の記事における「三河松平氏が世良田氏後裔を称した経緯」の解説
三河国の戦国大名松平氏は、松平清康のとき清和源氏世良田氏の後裔と称するようになった。 清康は三河の支配層である守護足利系吉良氏への対立軸として、自身を新田源氏の名門に繋げるために、三河松平郷で没した政親(政義の子、親季の弟)の存在に着目したという[要出典]。さらに政親の祖先である世良田頼氏は三河守、三河の支配者の先祖として、着眼した清康は自身の安祥松平家の世襲の通称「次郎三郎」を用い、「世良田次郎三郎清康」と称したという。 清康の孫の松平家康は初め清康からの流れとして世良田氏を称していたが、1566年、三河統一のため三河守任官を望んだ際、「世良田氏に三河守叙任の前例はない」と拒否された。そこで家康は近衛前久に相談した。近衛前久は松平氏の祖とされる世良田義季が得川氏を名乗った文献があること、また新田系得川氏が藤原姓を名乗ったことがあることなどを突き止め[要出典]、家康個人のみが「徳川」に「復姓」(事実上の改姓)するという特例措置を得、従五位下三河守に叙任された。 豊臣秀吉政権の傘下に入ったころから、再び新田源氏に復姓していたようである。その頃安房の里見氏(新田一族)に送った書状では、徳川氏と里見氏が新田一族の同族関係にあることを主張している。1590年に関東へ移封された前後には、新田一族に繋がる岩松氏の末裔を召し出して新田氏の系譜を尋ねている事項が記録にある。 この過程で家康が整理させた徳川氏の系譜では、松平氏の祖は、親季(政親の兄)の遺児とする有親(長阿弥)ということにされている。 その伝承によると、親季の戦死後、その子の有親も南朝方として戦った(信濃で戦死したとも言う)。有親の子世良田親氏は北朝方の追捕を逃れて時宗の僧となって徳阿弥と称し、流浪した。やがて三河国に流れつき、加茂郡松平郷の領主 松平信重(左衛門少尉)の娘婿になり、還俗して松平氏の名跡を継ぎ松平親氏(松平太郎左衛門親氏)と名乗ったとする。 また、徳川七代将軍家継も幼少時世良田を称している。
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