三河松平家菩提寺の創建
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応仁元年(1467年)8月23日、尾張品野、三河伊保の軍兵が大挙して井田野に攻め寄せた。安城松平家当主の松平親忠は500余騎でこれを迎え撃ち、一夜と半日の戦いで破った。この第一次井田野合戦おける戦死者を弔うため、親忠は現在の岡崎市鴨田町字向山の地に千人塚を築いた。 その後、文明7年(1475年)になって、塚が振動し、近辺には悪病が流行するようになった。この亡霊を弔うために親忠は塚のほとりに念仏堂を建てた(現在の鴨田町字向山の西光寺)。そして、鴨田の旧館址に一寺を建立した。増上寺開山聖聡の孫弟子の勢誉愚底(せいよぐてい)を講じて七日七夜の間、別時念仏を修し、勢誉愚底を開山としてこの一寺を大樹寺と称した。寺号の「大樹」は征夷大将軍の唐名であり、寺伝では、松平氏から将軍が誕生することを祈願して勢誉愚底により命名されたと伝えられているが、釈迦入滅地の沙羅双樹にちなんだものとの説もある。 親忠により大樹寺は安城松平氏の菩提寺とされた。松平郷の高月院にあった墓から分骨され、親忠は、先代3代である松平親氏、松平泰親、松平信光の墓をそれぞれ大樹寺に移設した。なお、信光明寺には現在も親氏、泰親、信光の墓である3基の宝篋印塔が残っており、そのため、大樹寺にある3氏の墓は信光明寺から移転したものとも言われている。 天文4年(1535年)、岡崎松平家当主松平清康により再興され、一層方形二層円形の多宝塔が建立された。
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