三河松平家菩提寺の創建とは? わかりやすく解説

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三河松平家菩提寺の創建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 09:55 UTC 版)

大樹寺」の記事における「三河松平家菩提寺の創建」の解説

応仁元年1467年8月23日尾張品野、三河伊保軍兵大挙して井田野に攻め寄せた安城松平家当主松平親忠500余騎でこれを迎え撃ち一夜半日戦いで破った。この第一次井田野合戦おける戦死者弔うため、親忠は現在の岡崎市鴨田町向山の地に千人塚築いたその後文明7年1475年になって、塚が振動し近辺には悪病流行するようになった。この亡霊弔うために親忠は塚のほとりに念仏堂建てた現在の鴨田町向山西光寺)。そして、鴨田旧館址に一寺建立した増上寺開山聖聡孫弟子勢誉愚底(せいよぐてい)を講じて七日七夜の間、別時念仏修し勢誉愚底を開山としてこの一寺大樹寺称した寺号の「大樹」は征夷大将軍唐名であり、寺伝では、松平氏から将軍誕生することを祈願して勢誉愚底により命名されたと伝えられているが、釈迦入滅地の沙羅双樹にちなんだものとの説もある。 親忠により大樹寺安城松平氏菩提寺とされた。松平郷高月院にあった墓から分骨され、親忠は、先代3代である松平親氏松平泰親松平信光の墓をそれぞれ大樹寺移設した。なお、信光明寺には現在も親氏、泰親、信光の墓である3基の宝篋印塔残っており、そのため、大樹寺にある3氏の墓は信光明寺から移転したものとも言われている。 天文4年1535年)、岡崎松平家当主松平清康により再興され、一層方形二層円形多宝塔建立された。

※この「三河松平家菩提寺の創建」の解説は、「大樹寺」の解説の一部です。
「三河松平家菩提寺の創建」を含む「大樹寺」の記事については、「大樹寺」の概要を参照ください。

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