三河武士の愛刀村正(〜1616年)
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「村正」の記事における「三河武士の愛刀村正(〜1616年)」の解説
村正は徳川領の三河に近い伊勢の刀工であり、三河を始めとする東海地方には千子派(村正の一派)や千子派と交流があった刀工の数が多く、それらの刀剣を所持する者は徳川家臣団にも多かった。まず第一に、徳川家康自身が村正を所有していた。尾張徳川家は家康の形見として村正を伝承し、現在では徳川美術館に所蔵されている。刀身に疵などない健全な保存状態で、皆焼(ひたつら)の刃文が強烈な印象を与える逸品である。このことから、徳川美術館は、徳川家康が村正を嫌ったのは「後世の創作」、実際は家康は村正を好んでいた、と断言している。 その他、徳川四天王筆頭であった酒井忠次の愛刀「猪切」(銘「正真」)は、村正の高弟、千子正真の作である。同じく四天王本多忠勝の愛槍にして明治以降は天下三名槍の一つとも称される「蜻蛉切」(銘「藤原正真作」)の作者、三河田原の文殊正真は、村正と技術的交流があったとされ、あるいは同名の千子正真との同一人物説もある。 海音寺潮五郎によると、吉川英治が『宮本武蔵』を連載しているときに散歩のついでに吉川邸に立ち寄り、先客であった岩崎航介という東京大学卒の鋼鉄の研究家から「妖刀伝説は嘘。昔は交通の便も悪いので近在の刀鍛冶から買い求める。三河からすぐ近くの桑名で刀を打っていた村正から買うのは自然だし、ましてよく切れる刀ならなおさら。今の小説家は九州の武士に美濃鍛冶のものを差させたり、甲州の武士に波ノ平(九州南端の薩摩国の鍛冶)を差させたりしているが、そういうことは絶無ではないにせよ、まれであった」と説かれている。 こうして三河武士にその切れ味を評価された村正と千子派の作は、三河以来の譜代以外の武将にも用いられることとなった。鍋島信濃守勝茂もその一人で、いわゆる「妙法村正」の中心の棟に「鍋信」の銀象嵌を入れるほど愛用しており、それが小城藩鍋島氏に伝わっている。真田信繁(俗に幸村)の兄真田信之の家系松代藩真田氏には、村正の高弟正重の作が伝来していた(信之自身のものかは不明)。小牧・長久手の戦いでは徳川方として活躍した武将丹羽氏次も、村正から影響を受けた(あるいは一説に正重の親族の)刀工、坂倉正利作「岩突槍」を所持している。また、『甲子夜話』では、福島正則が自身の所蔵する村正を家臣たちへ下賜、その家臣たちは三田藩に移っても村正を重代の家宝として伝えていたという話があり、当時村正が恩賞としての価値もあったことを推し測ることができる。 元和2年4月17日(グレゴリウス暦1616年6月1日)、徳川家康薨去。御三家筆頭である尾張徳川家への遺品目録『駿府御分物御道具帳』「御腰物之帳」は、二振りの村正を記載する。
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