三河武士の愛刀村正とは? わかりやすく解説

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三河武士の愛刀村正(〜1616年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:48 UTC 版)

村正」の記事における「三河武士の愛刀村正(〜1616年)」の解説

村正徳川領の三河に近い伊勢刀工であり、三河始めとする東海地方には千子派村正一派)や千子派交流があった刀工の数が多く、それらの刀剣所持する者は徳川家臣団にも多かった。まず第一に徳川家康自身村正所有していた。尾張徳川家家康形見として村正伝承し、現在では徳川美術館所蔵されている。刀身に疵などない健全な保存状態で、皆焼ひたつら)の刃文強烈な印象与え逸品である。このことから、徳川美術館は、徳川家康村正嫌ったのは「後世の創作」、実際家康村正好んでいた、と断言している。 その他、徳川四天王筆頭であった酒井忠次愛刀猪切」(銘「正真」)は、村正高弟、千子正真の作である。同じく四天王本多忠勝の愛にして明治以降天下三名槍一つとも称される蜻蛉切」(銘「藤原正真作」)の作者三河田原文殊正真は、村正技術的交流があったとされ、あるいは同名の千子正真との同一人物説もある。 海音寺潮五郎によると、吉川英治『宮本武蔵』連載しているときに散歩ついでに吉川邸に立ち寄り先客であった岩崎航介という東京大学卒の鋼鉄研究家から「妖刀伝説は嘘。昔は交通の便も悪いので近在刀鍛冶から買い求める三河からすぐ近く桑名で刀を打っていた村正から買うのは自然だし、ましてよく切れる刀ならなおさら。今の小説家九州武士美濃鍛冶のものを差させたり、甲州武士に波ノ平(九州南端薩摩国鍛冶)を差させたりしているが、そういうこと絶無ではないにせよ、まれであった」と説かれている。 こうして三河武士にその切れ味評価され村正千子派の作は、三河以来譜代以外の武将にも用いられることとなった鍋島信濃守勝茂もその一人で、いわゆる妙法村正」の中心の棟に「鍋信」の銀象嵌入れるほど愛用しており、それが小城藩鍋島氏伝わっている。真田信繁俗に幸村)の兄真田信之家系松代藩真田氏には、村正高弟正重の作が伝来していた(信之自身ものかは不明)。小牧・長久手の戦いでは徳川方として活躍した武将丹羽氏次も、村正から影響受けた(あるいは一説正重親族の)刀工坂倉正利作「岩突」を所持している。また、『甲子夜話』では、福島正則自身所蔵する村正家臣たちへ下賜、その家臣たちは三田藩移って村正重代家宝として伝えていたという話があり、当時村正恩賞としての価値もあったことを推し測ることができる。 元和2年4月17日グレゴリウス暦1616年6月1日)、徳川家康薨去御三家筆頭である尾張徳川家への遺品目録駿府御分物御道具帳』「御腰物之帳」は、二振り村正記載する

※この「三河武士の愛刀村正(〜1616年)」の解説は、「村正」の解説の一部です。
「三河武士の愛刀村正(〜1616年)」を含む「村正」の記事については、「村正」の概要を参照ください。

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