三河日報事件
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『三河日報』はやがて1929年(昭和4年)頃から経営不振となり、給料の遅配が目立つようになる。1930年(昭和5年)7月1日、岡崎合同労働組合が設立。同年12月7日、岡崎印刷技工組合が『三河日報』の印刷工を中心に設立され、組合側は岡田との交渉に入った。しかし途中から博徒の市橋栄次郎と元大相撲力士の辻敬が介入し、組合側の活動を妨害。また、元『三河日報』記者の安藤春夫が何者かに殴打され負傷した。当時は労働農民党衆議院議員・山本宣治暗殺など左翼勢力に対する白色テロが起きていたため、組合の指導者たちは非常手段で自己防衛するほかないと考え、市橋と辻の襲撃計画を立てる。 1931年(昭和6年)1月15日夜、畔柳治三雄、榊原金之助、近藤春次らは市橋に重傷を負わせた。辻に対しては未遂に終わった。翌1月16日、警察は関係者を検挙。畔柳、榊原、安藤春夫、伊藤鈴男、大須賀辰雄ら5名が傷害容疑で起訴された。それとともに当局は島田小市、畔柳治三雄、落合秀雄の3名を治安維持法違反のかどで起訴し、岡崎合同労働組合は壊滅状態となった。また『三河日報』も1935年(昭和10年)2月にはついに廃刊に追い込まれる。岡田はこれを機に不蔵庵に入り、俳画と楽焼だけを楽しむようになった。 1940年(昭和15年)5月9日に安城町で友人と酒を飲んだその翌日10日、昏睡状態に陥り死去。 1941年(昭和16年)10月、遺稿集『撫琴遺稿』(鶴田鐵山編)が不蔵庵から出版される。
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