三河日報事件とは? わかりやすく解説

三河日報事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 08:34 UTC 版)

岡田撫琴」の記事における「三河日報事件」の解説

三河日報』はやがて1929年昭和4年)頃から経営不振となり、給料遅配が目立つようになる1930年昭和5年7月1日岡崎合同労働組合設立同年12月7日岡崎印刷技工組合が『三河日報』の印刷工を中心に設立され組合側は岡田との交渉入った。しかし途中から博徒市橋栄次郎と元大相撲力士の辻敬が介入し組合側の活動妨害また、元『三河日報記者安藤春夫が何者かに殴打され負傷した当時労働農民党衆議院議員山本宣治暗殺など左翼勢力対す白色テロ起きていたため、組合指導者たちは非常手段自己防衛するほかないと考え市橋と辻の襲撃計画立てる。 1931年昭和6年1月15日夜、畔三雄榊原金之助近藤春次らは市橋重傷を負わせた。辻に対して未遂終わった。翌1月16日警察関係者検挙。畔榊原安藤春夫、伊藤鈴男、大須賀辰雄ら5名が傷害容疑起訴された。それとともに当局島田小市、畔三雄落合秀雄の3名を治安維持法違反のかどで起訴し岡崎合同労働組合壊滅状態となった。また『三河日報』も1935年昭和10年2月にはついに廃刊追い込まれる岡田これを機に庵に入り俳画楽焼だけを楽しむようになった。 1940年昭和15年5月9日安城町友人と酒を飲んだその翌日10日昏睡状態に陥り死去1941年昭和16年10月遺稿集『撫琴遺稿』(鶴田鐵山編)が不庵から出版される

※この「三河日報事件」の解説は、「岡田撫琴」の解説の一部です。
「三河日報事件」を含む「岡田撫琴」の記事については、「岡田撫琴」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「三河日報事件」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「三河日報事件」の関連用語

三河日報事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



三河日報事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの岡田撫琴 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS