三国志演義の成立史
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三国志演義の成立史(さんごくしえんぎのせいりつし)では、中国明代に成立した長編小説で四大奇書の一つ『三国志演義』の成立過程について概説する。『三国志演義』は、後漢末期の混乱から魏・蜀・呉の三国が鼎立し、晋によって再び統一されるまでの約1世紀にわたる治乱の歴史を描いた通俗小説である。3世紀末に成立した歴史書『三国志』以降、南宋代の都市で語られた講談までの間に培われた逸話群が、元代に刊本『三国志平話』としてまとめられ、さらに元の雑劇(元曲)の要素を吸収しつつ、明代に作品として完成した。そのため、部分的に白話(口語)文体を用いた文言小説[※ 1]となっている。作者は一般的に羅貫中と言われるが、定かではない(後述)。現存する最古の刊本は、1522年刊と思われる『三国志通俗演義』(嘉靖本)である。16世紀から17世紀にかけて隆盛を迎える通俗白話小説の元祖となった。
注釈
- ^ 文言小説とは、宋代以後の中国小説史の上で、大きな比重を占めてはいなかったために、形態名が与えられていなかったこの分野に対し、前野直彬が仮に付けた呼称である[1]。
- ^ なお、ここでの「正史」とは「紀伝体の体裁で書かれた歴史書」のことを意味する。
- ^ 楊翼驤が計量した正史20万字、裴注54万字という数値が広まり、裴注の量は正史本文を倍以上凌駕すると思われていたが、王廷洽が中華書局版の排印本で、呉金華が百衲本でそれぞれ計量したところ、正史本文の方が若干多いことが判明している。呉金華の計量によれば、正史本文は約368,000字に対して裴注は約322,000字となっている[11]。
- ^ 『後漢書』『三国志』両方に本伝が立っているのは董卓、袁紹、袁術、劉表、陶謙、公孫瓚、呂布、臧洪、荀彧、劉焉、華陀の11人。このうち臧洪は『三国志演義』では名前さえ登場しないが、他の10人はみな主要人物として活躍している。
- ^ 虞氏が刊行した「全相平話」シリーズは他にも『全相平話武王伐紂書』『全相平話楽毅図斉七国春秋後集』『全相秦併六国平話』『全相平話前漢書続集』など、計5篇が現存している。いずれも中国では散佚し、日本にもたらされた5篇セットのものが内閣文庫(国立公文書館)に伝存する[36][37]。
- ^ 『三分事略』の表紙に「甲午新刊」という字が記されている。至元という年号は、元代に世祖と順帝の2度採用されており、至治に近いのは順帝治世の至元(1335年 - 1340年)であるが、甲午の干支は存在しない。世祖治世の至元(1271年 - 1294年)には甲午年が存在するが(至元31年=1294年)、そうなると至治平話より30年も前に刊行されたことになる。
- ^ 中川諭は『三分事略』は先行するテキストが存在し、それを覆刻することを繰り返してきた『平話』の一系統であり、刊行自体は『平話』より後だが、刊行年だけ新たに作り直したものであろうとする[38]。
- ^ 「意図的に組み替えられた」というよりは、「きちんと整理されていない」というのが正確。
- ^ 人名では糜芳が梅芳、孫乾が孫虔、皇甫嵩が皇甫松、李粛が李宿、紀霊が紀陵、馬岱が馬大など。地名では新野が辛冶、街亭が皆庭、耒陽が歴陽など。口承文芸を元にしたためか、同音異字の誤りが多い。なお紀霊は『演義』の葉逢春本、余象斗本、鄭少垣本などの福建系刊本でも「紀陵」に作る。
- ^ 史実では劉淵は劉備の遠縁であって直系ではないが、平話は「成都から脱出した外孫の劉淵」としている。また、劉淵は史実では西晋滅亡以前に病没しており、西晋が滅ぶのはだいぶ後なのだが、全て脚色されている。
- ^ この冥界裁判物語は『演義』とは別に発展して、明代の白話小説集である『古今小説』の巻31に「鬧陰司司馬貌断獄」という名で収められている。主人公の名は司馬貌(字は重湘)に変えられており、時代も後漢初期から霊帝期へと100年後に変更された。仲相と重湘は同音(zhòngxiāng)で、司馬懿の字仲達からさらに変化させたものであり、懸案を解決した後100年間も空くのはおかしいとのことから、時代も移されたものであろう[46]。転生される人物の数も格段に増えている。清代にはさらに『半日閻王全伝』と改題されて出版され外国へも広まったが、現在の『演義』には要素としては全く残っていない[47]。
- ^ 生みの親の関羽、育ての親の索員外、武芸の師の花岳先生の頭文字をとって花関索と名乗っている。
- ^ 『三国志演義』は最も早く成立した通俗小説のため、章回小説においても草分け的存在とされることもあるが、章回形式を採用したのは『水滸伝』百回本の方が早いと見られる。『水滸伝』も現存最古の容与堂本(1610年)より古い初刊本は現存していないが、嘉靖前期に郭勛が作成した20巻100回のテキスト(郭武定本)があったことが確実視されており、『演義』の李卓吾本(万暦以降成立)よりも早い。『演義』における章回表記は『西遊記』で章回が採用された世徳堂本(1592年初版)とほぼ同時期となる。
- ^ 余象斗は『水滸伝』において、それまでの百回本に田虎・王慶征伐(作者は袁無涯や楊定見か)を挿入した簡本を出版。朱鼎臣は『西遊記』の古い版本を元にした前半部と世徳堂本を簡略化した後半部を合わせた前繁後簡本ともいうべき刊本を出版している。
- ^ 金聖歎の他の文章(たとえば『水滸伝』七十回本)と矛盾する箇所があることから、金聖歎の名を借りた別人のものであることは定説となっている。実際の筆者は毛宗崗とする説と李笠翁とする説がある[65]。
- ^ この場合の亭というのは、諸侯として封じられた地名ではなく、爵位の格を表す言葉である。単独で使われるのではなく「亭侯」という爵位なので、従って略されることはあっても侯から分離されることはありえない
- ^ 洪武27年(1394年)に南京に建てられた関羽廟には「漢の前将軍、寿亭侯」と書かれており、それがようやく訂正されたのは嘉靖10年(1531年)だったという[66]。
- ^ a b 湖南文山が翻訳の際に使用した底本は、李卓吾評本系であることが明らかとなっている[68]。
- ^ 『演義』では関羽は冷豔居という銘の82斤(明代では約49キログラム)の青龍偃月刀を持つが、青龍刀は宋代以降の武器であり、三国時代には存在していない。
- ^ 赤兎は正史では呂布の所有馬であり(呂布伝)、関羽とは本来関係がない。関元帥が南方の守護であることから五行説で赤と結びついたと思われる。
- ^ 嘉靖本で関羽が「関公」と呼ばれるのは、千里独行のほかはほぼ「麦城昇天(関羽の死を語る箇所)」の部分のみである[82]。
- ^ 『平話』では長安を出た関羽はまっすぐ冀王の袁紹の下に向かい、劉備の不在を知ると荊州(実際にはその途上の太行山)を目指して南西方面へ千里独行する。これに対し『演義』では許都から冀州へ向けて北東方面に千里行するため方向が全く逆となる。現在河南省許昌市には関羽と曹操が別れたという灞陵橋(bàlíngqiáo)が観光名所となっているが、これは本来八里橋(bālĭqiáo)と呼ばれていたものを長安の灞水にかかる灞陵橋にちなんで改名したものである[83]。
- ^ 演技の影響によって、現代の中国では「頭の良い人」を"小孔明"と呼んでいる
- ^ 『傅子』『黙記』『呉書』等を指す。
- ^ 陳寿の死後すぐに書かれた王隠の『晋書』には陳寿が諸葛亮を恨みこの評をつけたと記録される。
- ^ 『魏書(北魏書)』巻54高閭伝に「採諸葛亮八陣之法」とある。
- ^ 『南斉書』巻52文学 祖沖之伝に「以諸葛亮有木牛流馬」とある。
- ^ 孟獲を七回捕らえたことは『漢晋春秋』『華陽国志』に見え、『平話』でも触れられるが詳細な記述はなく、『演義』の段階で記述が加えられたものである。
- ^ 空城計は裴注に、郭沖が語った故事がのこる他、文聘が孫権軍に対して用いた例(『魏略』)や、趙雲が曹操に対して用いた例(『趙雲別伝』)が載る。
- ^ 孔明が木牛流馬や連弩という運搬器具を使用したことは正史諸葛亮伝に出ている。『平話』では裴注に載る陳寿『諸葛亮集』の木牛流馬記事をふくらませて魏軍を翻弄する兵器として描いた。『演義』の木牛流馬はそれをさらに発展させたものである。
- ^ 第103回に孔明が上方谷で司馬懿を火計に陥れ、魏延もろともに殺そうとして雨により失敗した段は、毛宗崗本では俗本による捏造だとして削除されている。
- ^ 唐の詩人胡曽の『詠史詩』に載る「五丈原」に付けられた陳蓋の注釈に「米七粒」云々の表現が見える[99]。
- ^ 正史『三国志』編者の陳寿は、魏延の行動は、政敵の楊儀を殺せば自分が諸将から諸葛亮(孔明)の後継者として認められると思ったからで、謀反を起こそうとしたわけではないと考察している[100]。『演義』でも魏延の行動は大差ないが、孔明は魏延が劉備に仕えようとした時から「反骨の相」のある危険人物と主張して殺そうとし(史実ではない)、その後も執拗に魏延を警戒する言動をしていることで、読者はやはり謀反人だったと得心が行くよう誘導されるのである。
- ^ なお『後漢書』許劭伝では逆に「清平の姦賊、乱世の英雄」と評したとある。
- ^ 実際には陳宮は曹操の部将であり、当時の中牟県令は楊原という別人である[104]。
- ^ 「鶏肋」の逸話は裴注に引く『九州春秋』という書が由来である。
- ^ 正史『魏書』巻1武帝紀の裴注に引く『魏氏春秋』より。周の文王は天下の四分の三を得た後も天子とならず、子の武王にいたって殷を倒して周王朝を建てた。
- ^ 『華陽国志』の刊本の中には「翼徳」に作るものもあるが、刊行は雑劇や『平話』の影響が及ぶ明代以降である。
- ^ ともに入声で、平水韻では益は陌韻、翼は職韻。現代普通話ではyìで同音となる。
- ^ 元雑劇は通常4幕から成る。ものによって5幕のものや、「楔子」と呼ばれる補助幕があるものもある。
- ^ 『平話』では「太山」が泰山と太行山の2通りの意味で用いられるが、ここでは太行山を指す。
- ^ なお『平話』では周瑜の計略となっている。『演義』のような藁人形を用いて敵の矢を奪った計略は『新唐書』巻150張巡伝が参考にされている[137]。
- ^ 二宮事件の経過が大幅に省略され、陸遜の憤死も描かれていないため、この点は孫権に有利な改変と言える。
- ^ たとえば、配下の陸抗が、西晋の羊祜と前線で対峙しながらある種の友好関係を持ったことに腹を立て、左遷する記述があるが、史実では陸抗を直接処罰した記録はない。
- ^ 『建康実録』、正史『晋書』などでは、孫晧が王済(司馬炎の娘婿)の行儀の悪さを揶揄する内容になっている。『裴子語林』には賈充、王済両方の逸話が記録されている。
- ^ 史実には張節の名はない。『晋書』石苞伝によると、曹奐に禅譲を迫ったのは石苞と陳騫である。また『晋書』司馬陵伝に付した司馬順伝によると、司馬順が禅譲を批判し、涼州に流されたという記述がある。
- ^ 演義では、曹操は以前にも同じ夢を見ており、そこでは「馬」を司馬氏ではなく馬氏(馬騰)と勘違いすることで、馬騰父子を誅殺する理由付けに使った。しかし馬騰父子を殺してもまた同じ夢を見たので、賈詡が気休めを言ってなだめている。
- ^ 北方の趙元帥は黒い顔、西方の馬元帥は白い顔であり、五行に対応している。
- ^ 関羽の長いひげおよび『春秋左氏伝』愛好という特徴は、『平話』の最終的勝利者である劉淵から影響を受けているという指摘もある[149]。
- ^ 『大明一統志』巻88貴州布政司、永寧州・鎮寧州の条に見える。鎮寧州の関索嶺は少なくとも洪武21年(1388年)以前から呼ばれていたという[164]。
- ^ 『二刻英雄譜』に用いられている『演義』のテキストは、二十四巻系の底本に花関索説話を加えた特殊な様態となっている。これは英雄譜本の編者が底本とした二十四巻系が不完全な本で、それを補う為に別系統の花関索系の本を利用したためと思われるが、結果として関索と花関索が両方登場する奇妙な構成となってしまっている[171]。
- ^ 『水滸伝』は一般的に、施耐庵もしくは羅貫中が作者とされることが多いが、『演義』と全く同様に、最終的編者が誰なのかは定かではない。詳細は水滸伝の成立史を参照。
- ^ いわゆる通俗小説のうち、文言で書かれているのは清代の『聊斎志異』など少数である。
- ^ のちに市川家歌舞伎十八番に選定される。
- ^ 『水滸伝』を大胆に改編したことで知られる金聖歎は、文学史上自分に匹敵する才人の作品として『荘子』、『離騒』、『史記』、杜甫詩、『水滸伝』、『西廂記』を挙げて「六才子書」と名付け、自ら批評や改作を試みた。しかし第六(西廂記)・第五才子書(水滸伝)を完成させた後に処刑される。本来『演義』は金聖歎の挙げた六才子書には含まれていないが、金聖歎を同郷の師と仰ぐ毛宗崗が校訂を施した『演義』は、後に第一才子書であるとの訛伝が生じた。
- ^ ただしこれらは漢文としての受容に留まり、ベトナム語訳の出版は20世紀まで遅れた。
出典
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- 1 三国志演義の成立史とは
- 2 三国志演義の成立史の概要
- 3 英雄達の容貌
- 4 架空人物の履歴
- 5 演義の影響
- 6 脚注
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