りそう〔リサウ〕【離騒】
離騒
離騒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 05:41 UTC 版)
左幅 右幅 東京国立近代美術館蔵、双幅、各93.6x136.4cm、大正15年(1925年)第7回帝展。題名の「離騒」とは中国戦国時代の楚の政治家で詩人・屈原の代表作『楚辞』にある長編詩で、本作は長い間そこから着想を得ているとされてきた。しかし、絵の解釈、特に右幅の龍に乗る女性については説が分かれる。美術史家の藤懸静也は、これを伏羲の娘で洛水 に溺れ後に河神となった虙妃とするが、詩の後半に登場し屈原に世界を回り君主を探すよう告げる巫女(巫咸)とする説もある。 美術史家の島尾新は、『楚辞』の「離騒」「九歌」は、北宋時代に白描を復活させた李公麟、元の張渥、明の陳洪綬ら多くの画家に書き継がれてきた「白描の本流」と言い得る画題であり、これを強く意識した霊華はその中から湘君を選んだと推測している。田中伝はこの島尾の意見を進めて、作中のモチーフと対照させながら、「九歌」の第三編「湘君」第四編「湘夫人」の詩句を忠実に絵画化し、加えて中国絵画で伝統的に描き継がれてきた「九歌図」を図像的な典拠だと指摘する。そして、この「離騒」で描き出されているのは、今当に降臨しようとする湘夫人(右幅)と、その姿を見ることが出来ない屈原(左幅)だと考えられる。霊華が「離騒」と名づけた理由は、当時「離騒」は「屈原の詩全般」を指すという理解が一定度あったため、霊華も「九歌」も屈原の詩であるから作品に「離騒」と名付けた。しかし、一方で「離騒」=「屈原の詩全般」という語意は、却って詩題の混乱を招くとして『楚辞』関連書籍から削除される傾向にあり、藤懸らも『楚辞』の離騒のことだと誤解したと考えられる。 後年、霊華夫人の回想によると、「離騒」の製作期間は一週間ほどだった。普段は訪問者があると長く歓談をするのが常の霊華も、この時ばかりは夫人が玄関で断り、五日間ほとんど寝ずに記憶にある小下絵だけで一気に描き上げた。線は肘や手だけでなく体全体で引き、長い線を引いた時は汗びっしょりで、一筆ごとに夫人が汗を拭い、完成した時には霊華の端正な顔はすっかりやつれ、病人のようだっという。 「離騒」は第七回帝展に出品され、同展の日本画の中で最も好評だったという。霊華が以前「展覧会画」と避難した傾向は、初期文展の時ほどではないにしろ継続している中、このような白描淡彩の大作は衆目を驚かせ、専門家を唸らせた。先述の藤懸は、この絵を「超帝展的作物」「明治大正年間の諸展覧会に表れた傑作中屈指のもの」と絶賛し、一線一線渾身の力が注ぎ込まれており、その線の歌うかのような音律的躍動によって、「離騒」の詩がもつ興趣が直接絵として表現されている、と評した。帝国美術院賞の候補にも挙げられたが、霊華が審査員だったため見送られており、藤懸はこれを残念がっている。
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