万博当時の太陽の塔とは? わかりやすく解説

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万博当時の太陽の塔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 00:07 UTC 版)

太陽の塔」の記事における「万博当時の太陽の塔」の解説

太陽の塔は、丹下健三設計したお祭り広場中央(やや南寄り)に、広場を覆う銀色トラス構築され大屋根から塔の上半分がつき出す形で建てられテーマ館一部となっていた。1967年最初の公式記者会見において岡本は高さ60メートルの「(仮称生命の樹」を制作しその内部は過去・現在・未来三層構造になることを発表している(『読売新聞1967年10月22日付)。この基本構想思想的背景として岡本愛読した世界的宗教学者ミルチャ・エリアーデ著書存在指摘されている。 岡本大屋根の下に万博テーマ紹介する展示プロデューサー就任していたが、就任以前からテーマである「人類進歩調和」に反発。そして先に設計完成していた大屋根模型を見るなり「70mだな」と呟き、穴の空いた大屋根から顔を出す太陽の塔設計した。なお「当然ながら反発した丹下部下対し頭を下げあって馴れ合うだけの調和なんて卑しい』という信念曲げず大喧嘩した末に大屋根穴を開けさせ太陽の塔建てた」というような話が流布しているが、平野暁臣によれば丹下健三権力考えれば太陽の塔白紙にすることは簡単であり、万博全体として見れば太陽の塔はあったほうが良いので白紙にはしなかった。そもそも二人万博以前から関わりがありプロデューサー推薦したのも丹下のため、太陽の塔建ったのは丹下のおかげと語っている。テーマ館サブプロデューサーであった小松左京SF作家)が石原慎太郎小説太陽の季節』の中の障子を破る場面連想し、それを聞いた岡本太郎が「太陽の〜」と命名したとの証言を、ノンフィクション作家松浦晋也小松から直接聞いたとして伝聞記しているが、岡本がどのレベル述べたのかについては熟考が必要である。 一方で前年1969年プレ作品若い太陽の塔』が製作公開されている。小松談話は、完成した塔を見た発言のように聞こえるが、それだと時系列的に矛盾する。」「1952年岡本は『太陽の神話』という作品作っている。太陽モチーフなのはそのかなり前から。」という学説同上)がある。 万博会期中は、観客は「過去」の展示部分であるテーマ館地下部分から、透明のトンネル状通路通って太陽の塔内に進入した万博終了後この通路撤去され通路跡はコンクリートふさがれているが、その跡は今でもはっきりと確認できる。 塔の右腕内部設置されエスカレーターは、大屋根空中テーマ館)につながっていた(現在、腕の開口部ふさがれている)。また、塔の西側東側には、同じく岡本太郎作のオブジェ「母の塔」、「青春の塔」が建てられていた。 開催期間中の会場風景太陽の塔画像中央1970年4月撮影日本モンキーパークの「若い太陽の塔

※この「万博当時の太陽の塔」の解説は、「太陽の塔」の解説の一部です。
「万博当時の太陽の塔」を含む「太陽の塔」の記事については、「太陽の塔」の概要を参照ください。

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