ブラームスとの関係とは? わかりやすく解説

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ブラームスとの関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:24 UTC 版)

アントン・ブルックナー」の記事における「ブラームスとの関係」の解説

ブラームスとは当初敵対していた。当時ウィーン楽壇ブラームス派とワーグナー派に分かれており、ワーグナー交響曲第3番献呈したブルックナーワーグナー派と見做されていた。若い作曲学生にとってブルックナーウィーン大学講義出席することは、ワーグナー派であり反ブラームス派であることの主張でもあった。ブラームスブルックナーについて、「彼は知らず知らずのうちに人を瞞すという病気かかっている。それは、交響曲という病だ。あのピュートーンギリシア神話登場する巨大な怪物のような交響曲は、すっかりぶちまけるのに何年もかかるような法螺から生まれたのだ」と非難していた。一方でブルックナーブラームスのことを「彼は、自分仕事を非常によく心得ているが、思想思想たるをもっていない。彼は冷血プロテスタント気質人間である」と評していたという。あるいはもっと単純にハンスリックによればブラームスブルックナーを「交響大蛇 symphonische Riesenschlangen」と呼びヴォルフによればブルックナーブラームスを「モグラ塚 Maulwurfshügel」と呼んでいた。ブルックナーはまた次のようにも言っている。「ブラームスすべての交響曲よりも、ヨハン・シュトラウスの1曲のワルツの方が好きだ」「彼はブラームスである。全く尊敬する。私はブルックナーであり、自分のものが好きだ」。ブルックナーブラームス動向を気にしていたのは事実で、例え1893年4月22日のフランツ・クサーヴァ・バイヤーに宛てた手紙では、4月6日にシュタイヤー・ツァイトゥング紙でVとだけ署名され批評文ブラームスドイツ・レクイエムが「キリエクレドでの天才的なオルゲルプンクトと、特にグローリアでのヴィオラコントラバス天才的な対位法による職人芸……」(ドイツ・レクイエムカトリック典礼文ではないので、ここでのキリエなどの表題便宜的なもの)と評されていることについて、「あのブラームスレクイエムオルゲルプンクト批評書いたのは誰だ?私はオルゲルプンクト使いではないので、何も評価しない対位法天才ではないし、目的達成する手段に過ぎない」と批判している。 一方でウィーン音楽界何でもかんでもブラームス派とワーグナーブルックナー派の真っ二つ分かれていたわけではなくブラームス親友として知られるヨハン・シュトラウスブラームスヨハン・シュトラウスウィーン中央墓地並んで埋葬されている)はブルックナー称賛しており、「私は昨日ブルックナー交響曲聴いた具体的な番号触れていない)。偉大で、ベートーヴェンのようだ!」と評している。 1889年10月25日、共通の友人たち仲介で、ウィーン楽友協会1870年現在地移動)が元あった場所の脇の食堂「赤いハリネズミ(レストラン・ローター・イーゲル Restaurant Rother Igel または宿の名としてツム・ローテン・イーゲル Zum Roten Igel)」でブルックナーブラームス会食することとなったブラームス行きつけ食堂として知られるが、音楽家批評家の集まる店として知られブルックナーマーラー頻繁に訪れていた。ブルックナーの手帳には「10月25日ブラームスと赤いハリネズミ外食と書き込んである。当日ブルックナー先に来て、後から来たブラームス黙って長いテーブル反対側に座るなりメニュー見たまま黙り込み気まずい雰囲気となったメニュー決めたブラームスが「団子添え燻製豚、これが私の好物だ Gselchts und Knödel! Das ist ja mein Leibgericht.」と言うとすかさずブルックナーが「ほらね先生団子添え燻製豚、これがわしらの合意点ですて Sehen’s, Herr Doktor, Knödel und Gselchts! Das ist der Punkt, wo wir zwei uns verstehen. 」と応じ一同爆笑して一気に座が和んだ。しかしその後二人の仲が好転することはなかった。 ブラームスブルックナー生前最後に初演され大作である交響曲第8番に対して称賛している。ブラームス知人に「ブルックナー交響曲第8番楽譜早く送ってほしい」と依頼したこともある。この頃になるとブラームス自分引き受けられない仕事ブルックナーに振るように根回しし、そうしてブルックナー作曲したのが『詩篇150番』(1892年)である。 ブルックナー葬儀の際、ブラームス自宅目の前であったカールス教会入り口佇み葬儀様子遠巻き見ていた(プロテスタント教徒であったブラームスカトリック教会に入るのを遠慮していたが、他のカトリック教徒知人葬儀出席しなかったわけではない)。会衆一人中に入るように促すと、「次は私のを担ぐがいい」と言い捨てて雑踏消えたカールス教会目の前公園広場になっている)。しかしまた戻ってきて、当時8歳だったベルンハルト・パウムガルトナーによると「好奇心の強い会衆から隠れるようにして」の陰で泣いていたのが目撃されている。ブラームスもそれから半年後の翌1897年4月3日死去した

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ブラームスとの関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:51 UTC 版)

クララ・シューマン」の記事における「ブラームスとの関係」の解説

現在でもブラームスクララとの不倫説が絶えないが、それを裏付けるものは全くない事実として存在するのは、ブラームスクララ生涯にわたって親交が深い友人であったということだけである。 なお、ブラームスクララ没した翌年後を追うように病没している。ブラームスクララ危篤の報を受け取り汽車飛び乗ったが、間違えて各駅停車列車乗ったために遠回りとなり葬儀立ち会えず、ボンにある夫ロベルト・シューマンの墓へ埋葬される直前にやっと間に合い閉じられ垣間見ただけであったという。

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