ブラームスとの関係
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「アントン・ブルックナー」の記事における「ブラームスとの関係」の解説
ブラームスとは当初敵対していた。当時のウィーン楽壇はブラームス派とワーグナー派に分かれており、ワーグナーに交響曲第3番を献呈したブルックナーはワーグナー派と見做されていた。若い作曲学生にとってブルックナーのウィーン大学の講義に出席することは、ワーグナー派であり反ブラームス派であることの主張でもあった。ブラームスはブルックナーについて、「彼は知らず知らずのうちに人を瞞すという病気にかかっている。それは、交響曲という病だ。あのピュートーン(ギリシア神話に登場する巨大な蛇の怪物)のような交響曲は、すっかりぶちまけるのに何年もかかるような法螺から生まれたのだ」と非難していた。一方でブルックナーはブラームスのことを「彼は、自分の仕事を非常によく心得ているが、思想の思想たるをもっていない。彼は冷血なプロテスタント気質の人間である」と評していたという。あるいはもっと単純に、ハンスリックによればブラームスはブルックナーを「交響的大蛇 symphonische Riesenschlangen」と呼び、ヴォルフによればブルックナーはブラームスを「モグラ塚 Maulwurfshügel」と呼んでいた。ブルックナーはまた次のようにも言っている。「ブラームスのすべての交響曲よりも、ヨハン・シュトラウスの1曲のワルツの方が好きだ」「彼はブラームスである。全く尊敬する。私はブルックナーであり、自分のものが好きだ」。ブルックナーがブラームスの動向を気にしていたのは事実で、例えば1893年4月22日のフランツ・クサーヴァ・バイヤーに宛てた手紙では、4月6日にシュタイヤー・ツァイトゥング紙でVとだけ署名された批評文でブラームスのドイツ・レクイエムが「キリエ、クレドでの天才的なオルゲルプンクトと、特にグローリアでのヴィオラとコントラバスの天才的な対位法による職人芸……」(ドイツ・レクイエムはカトリックの典礼文ではないので、ここでのキリエなどの表題は便宜的なもの)と評されていることについて、「あのブラームスのレクイエムのオルゲルプンクトの批評を書いたのは誰だ?私はオルゲルプンクト使いではないので、何も評価しない。対位法は天才ではないし、目的を達成する手段に過ぎない」と批判している。 一方でウィーンの音楽界が何でもかんでもブラームス派とワーグナー/ブルックナー派の真っ二つに分かれていたわけではなく、ブラームスの親友として知られるヨハン・シュトラウス(ブラームスとヨハン・シュトラウスはウィーン中央墓地に並んで埋葬されている)はブルックナーを称賛しており、「私は昨日ブルックナーの交響曲を聴いた(具体的な番号は触れていない)。偉大で、ベートーヴェンのようだ!」と評している。 1889年10月25日、共通の友人たちの仲介で、ウィーン楽友協会(1870年に現在地に移動)が元あった場所の脇の食堂「赤いハリネズミ(レストラン・ローター・イーゲル Restaurant Rother Igel または宿の名としてツム・ローテン・イーゲル Zum Roten Igel)」でブルックナーとブラームスが会食することとなった。ブラームスの行きつけの食堂として知られるが、音楽家や批評家の集まる店として知られ、ブルックナーやマーラーも頻繁に訪れていた。ブルックナーの手帳には「10月25日、ブラームスと赤いハリネズミで外食」と書き込んである。当日、ブルックナーが先に来て、後から来たブラームスは黙って長いテーブルの反対側に座るなりメニューを見たまま黙り込み、気まずい雰囲気となった。メニューを決めたブラームスが「団子添え燻製豚、これが私の好物だ Gselchts und Knödel! Das ist ja mein Leibgericht.」と言うと、すかさずブルックナーが「ほらね先生、団子添え燻製豚、これがわしらの合意点ですて Sehen’s, Herr Doktor, Knödel und Gselchts! Das ist der Punkt, wo wir zwei uns verstehen. 」と応じ、一同は爆笑して一気に座が和んだ。しかしその後も二人の仲が好転することはなかった。 ブラームスはブルックナーの生前最後に初演された大作である交響曲第8番に対しては称賛している。ブラームスが知人に「ブルックナーの交響曲第8番の楽譜を早く送ってほしい」と依頼したこともある。この頃になるとブラームスは自分の引き受けられない仕事をブルックナーに振るように根回しし、そうしてブルックナーが作曲したのが『詩篇第150番』(1892年)である。 ブルックナーの葬儀の際、ブラームスは自宅の目の前であったカールス教会の入り口に佇み、葬儀の様子を遠巻きに見ていた(プロテスタント教徒であったブラームスはカトリック教会に入るのを遠慮していたが、他のカトリック教徒の知人の葬儀に出席しなかったわけではない)。会衆の一人が中に入るように促すと、「次は私の棺を担ぐがいい」と言い捨てて雑踏に消えた(カールス教会の目の前は公園広場になっている)。しかしまた戻ってきて、当時8歳だったベルンハルト・パウムガルトナーによると「好奇心の強い会衆から隠れるようにして」柱の陰で泣いていたのが目撃されている。ブラームスもそれから半年後の翌1897年4月3日に死去した。
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ブラームスとの関係
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「クララ・シューマン」の記事における「ブラームスとの関係」の解説
現在でもブラームスのクララとの不倫説が絶えないが、それを裏付けるものは全くない。事実として存在するのは、ブラームスとクララは生涯にわたって親交が深い友人であったということだけである。 なお、ブラームスはクララが没した翌年、後を追うように病没している。ブラームスはクララの危篤の報を受け取り汽車に飛び乗ったが、間違えて各駅停車の列車に乗ったために遠回りとなり葬儀に立ち会えず、ボンにある夫ロベルト・シューマンの墓へ埋葬される直前にやっと間に合い、閉じられた棺を垣間見ただけであったという。
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