ブルックナー【Josef Anton Bruckner】
ブルックナー
オーストリアの作曲家。少年の頃に、いとこのヴァイスに和声やオルガンの奏法を学んだ。10代の時に父親を亡くすと、ザンクト・フローリアン修道院で少年聖歌隊の一員として育ち、オルガニストのカッティンガーの教えを受けた。教員となり、亡き父と同じ道を歩み出したブルックナーは、結婚式や舞踏の集まりでヴァイオリンを弾くこともあった。また、オルガニストのツェネッティに師事し、教員として昇進しながらザンクト・フローリアン修道院のオルガニストも務めた。その間もピアノやオルガン、対位法の勉強を続け、ウィーンの宮廷楽長から「熟達した本格的なオルガニスト」という証明書を授与されるまでになった。レクイエムやミサ・ソレニムスの作曲も手がけている。この時創作したミサ・ソレニムスは、ウィーンの音楽理論家ジーモン・ゼヒターの弟子入りを認められる出来であった。しかし、ブルックナーが音楽家として身を立てる決意をするのは、1856年にリンツ大聖堂と市の教区聖堂のオルガニストに任命された1856年春のことである。
アントン・ブルックナー
ブルックナー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/27 03:58 UTC 版)
オーストリア国立図書館勤務当時の初期より、バロック音楽とクラシック音楽に興味を持つ。後にはウィーン・ライブラリーに寄贈されたオリジナル原稿に基づくアントン・ブルックナーの交響曲とミサ曲の完全版の編集に取り組むために新たに創設された国際ブルックナー協会に雇用される。1935年から1944年の間に交響曲第6番(1935年)、第5番(1935年)、第4番(1936年と1944年)、第7番(1944年)などの校訂版の完成に没頭した。 しかしながら、ハース版は議論を巻き起こした。学者であるベンジャミン・コーストヴェットは第2番、第7番、第8番の校訂に関してハースを非難した。例えば、第8番においては1887年の第1稿、1890年の第2稿を折衷し、さらに1892年に最初に出版された初版や、ブルックナーが友人に示した1887年の草稿からも一部を取り入れた。 また、ハースはナチスの党員であったことから、第二次世界大戦後にプロジェクトから外されることになり、学究肌のレオポルト・ノヴァークが後任に就任し新全集を刊行する。
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