ニューハンプシャー払下げとバーモント共和国
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「バーモント州の歴史」の記事における「ニューハンプシャー払下げとバーモント共和国」の解説
戦争の終結でバーモントに新しい入植者が入ってきた。クラウン・ポイントの砦が建設され、クラウン・ポイント軍事道路がバーモントの荒野を東のスプリングフィールドから西のクラウン・ポイントへ延び、アメリカ13植民地への旅行が以前よりも楽になった。3つの植民地がバーモントの土地の領有を主張していた。マサチューセッツ湾植民地は1629年の勅許を元に領有を主張していた。ニューヨーク植民地は1664年にヨーク公(後のジェームズ2世)に対する土地特許を根拠にバーモントの領有を主張していた。ニューハンプシャー植民地も1740年のジョージ2世による布告に基づいて領有を主張していた。1741年、ジョージ2世は、マサチューセッツのバーモントとニューハンプシャーにおける領有権主張を無効とし、その北側境界を現在のものに設定する裁定を行った(ただし、メインはまだマサチューセッツの一部のままであり、1820年に合衆国23番目の州としてメイン州が成立したときにこの境界がもうけられた)。その後は、ニューハンプシャー植民地とニューヨーク植民地の領有権主張が残り、論争になった。 この論争の原因は、1749年から1764年までにニューハンプシャー植民地総督のベニング・ウェントワースが発行した135の土地払下げ、いわゆるニューハンプシャー払下げであった。この払下げがニューヨーク植民地総督との論争に火を付け、ニューヨーク植民地総督はその入植者がバーモントに入植する認証を与え始めた。1770年、イーサン・アレンは弟のイラやリーバイおよびセス・ワーナーと共に、非公式民兵隊「グリーン・マウンテン・ボーイズ」を組織し、新しいニューヨークの移民から元々居たニューハンプシャー入植者の利益を守った。1775年3月、ニューヨークの判事が入植者と共にウエストミンスターに到着したとき、暴動が起こって、怒った市民は庁舎を占拠した。その結果は「ウエストミンスター虐殺」と呼ばれる事件になり、ダニエル・ヒュートンとウィリアム・フレンチの二人が死亡した。 1777年1月18日、ニューハンプシャー特許を得ていた者の代表がウエストミンスターに結集し、独立した共和国を宣言した。最初の6ヶ月間はニューコネチカットと呼ばれた。 6月2日、ウエストミンスターに72名の代議員が結集し「ウエストミンスター会議」と呼ばれる2回目の会議を開いた。この会議で、フィラデルフィアのトマス・ヤング博士の提案に従って国名をバーモントとした。ヤングは、どのようにすれば独立国家を成立させられるかを助言する文書を書いた代議員の支持者だった。7月4日、激しい雷雨の中、イライジャ・ウエストが所有するウィンザー酒場でバーモント憲法が起草され、4日間の議論の後に7月8日代議員によって採択された。これは、北アメリカで最初の成文憲法であり、奴隷制度を廃止したこと、土地を所有しない男性にも選挙権を与えたこと、および公立の学校を定めたことで、すべて初めての憲法であった。憲法を起草した酒場はオールド・コンスチチューション・ハウスとして保存され、州の歴史的場所として管理されている。 8月16日、ベニントンの戦いが起こった。場所はベニントンではなく、ニューヨークとの境界を越えて直ぐのところだった。しかし、バーモントの男達はジョン・スターク将軍とセス・ワーナー大佐に率いられて戦闘で重要な役割を演じた。スタークは大陸軍指揮官の撤退命令を拒み、部下を駈ってイギリス兵とドイツ人傭兵に戦いを挑ませた。スタークは、「あそこに敵の赤服と王党派がいる。やつらは我々のものだ。さもなくばモーリー・スターク(スタークの妻)は今夜やもめで眠ることになる」と言ったという。この鼓舞でスタークの部下は死に物狂いで戦う準備ができた。バーモント民兵の支援を得たアメリカ軍はイギリス軍を打ち破り、10月17日のサラトガにおけるジョン・バーゴイン将軍率いるイギリス軍6,000名の降伏に導いた。サラトガの結果は、アメリカ軍が初めてイギリスの将軍が指揮する軍隊を破ったことで独立戦争の転換点となり、フランスにもアメリカに軍事的な援助をする価値があると思わせることになった。スタークは「ベニントンの英雄」として広く知られることになり、戦闘が起こった日は「ベニントンの戦いの日」としてバーモント州の公式祝日となった。 バーモントは東部のウィンザーを本拠として独立国家の形態を14年間続けた。1774年にコネチカットからバーモントに入ったトマス・チッテンデンが1778年から1789年と1790年から1791年の2回にわたって、行政長官を務めた。1791年、バーモントはアメリカ合衆国の14番目の州となった。独立時の13州に加えて初めての州成立であり、同じ年の夏に州昇格を認められたケンタッキー州が奴隷制度を認める州であったため、奴隷州と自由州のバランスを保つ意図があった。
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