ニューハンプシャー植民地
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ニューハンプシャー植民地(ニューハンプシャーしょくみんち、英: Province of New Hampshire)は、1691年10月7日から1788年まで、北アメリカ、現在のアメリカ合衆国ニューハンプシャー州の領域に存在したイギリス王室領植民地である。その勅許は1692年5月14日にイングランド王国とスコットランド王国の共同君主となったウィリアムとメアリーによって、マサチューセッツ湾直轄植民地と同じ時に法制化された。どちらの植民地もマサチューセッツ湾植民地の一部だった。
- ^ “State Facts”. New Hampshire Division of Travel and Tourism Development. 2008年8月18日閲覧。
- ^ a b Native Americans in Vermont: the Abenaki, from flowofhistory.org, a website funded by educational grants
- 1 ニューハンプシャー植民地とは
- 2 ニューハンプシャー植民地の概要
- 3 歴史
- 4 関連項目
ニューハンプシャー植民地
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「ジョナサン・ベルチャー」の記事における「ニューハンプシャー植民地」の解説
ニューハンプシャー植民地でのベルチャー政権は友好的に始まったが、急速に危ないものに変わった。副総督のジョン・ウェントワースは、総督の職が現実のものとなったときにサミュエル・シュート支持を提案しており、その後報復のために完全にウェントワース一族支持の方向に向いた。ベルチャーはリチャード・ウォルドロンと同盟し友人となった。ウォルドロンはウェントワースの仇敵であり、ベルチャーの姻戚だった。ジョン・ウェントワースは副総督としての長い任期の間に、植民地の大土地所有者や商人達の双方に対して大きな権力基盤を築いていたので、強力な敵もできていた。伝記作者のマイケル・バティンスキは、ベルチャーがウェントワースとその同盟者を庇護者となれる地位から外したのは、ウォルドロンの影響だったと言っている。ウェントワースの権力基盤は、ニューハンプシャーがマサチューセッツと組んで共通の総督を戴いていることに不満であり、マサチューセッツの人がその地位を占有している事実を快く思わない者が多かった。ニューハンプシャーの議会はベルチャーに対して敵対的であり、その貿易委員会にベルチャーの反対があったとしても植民地評議員の幾人かを指名させるよう説得することが出来ていた。ベルチャーは何度か同調的な議会にしようとして、その任期の間に10回も選挙を行わせたが、うまく行かなかった。この妥協しない議会はベルチャーの提案する法案の成立を拒否した。 ジョン・ウェントワースが1730年に死んだ後、ニューハンプシャー植民地副総督にデイビッド・ダンバーが指名されたことに、ベルチャーは失望した。ダンバーはウェントワースに対して友好的であり、国王の測量士でもあったので、船のマストに使うのに適した木を識別し、ニューイングランドの北部全ての未払下げ地での違法な伐採が起こらないようにする責任があった。この仕事は、それらの土地で違法な木の伐採を行っていたベルチャーのかなりの数の支持者に対抗するものであり、その伐採は総督が明らかに容認していたことだった。ベルチャーは、ダンバーが権限を行使できないようにするあらゆる手段を講じ、ダンバーを評議会の委員にすることを拒否し、ボストンからポーツマスに何度も旅して、自らの権限を行使した。この二人は互いを毛嫌いしており、ダンバーは1731年に指名されてから間もなくベルチャーの解任をロンドンに働きかけるように支持者を動かし始めていた。ベルチャーの同盟者による違法な伐採活動は結局ウィリアム・シャーリーの注意を惹くこととなった。シャーリーは植民地海事裁判所の王室側推進者であり、その庇護者は強力なニューカッスル公トマス・ペラム=ホールズだった。
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