ナイアガラの前線
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「米英戦争の戦闘一覧」の記事における「ナイアガラの前線」の解説
ニューヨーク州シャーロット、ジェネシー川河口に対するイギリス軍初の襲撃(10月1日): イギリス軍ロイヤルジョージから上陸したイギリス軍部隊による襲撃。アメリカ商船レディマレーと1隻の小さなボートを捕獲。現地にいたアメリカ軍小部隊は抵抗しなかった アッパー・カナダのエリー砦でイギリス艦HMSカレドニアとHMSデトロイトの捕獲(10月9日): ニューヨーク州バッファローから約100名のアメリカ軍がナイアガラ川を渡り、エリー砦に到着したばかりの海兵隊ブリッグ艦2隻を襲って捕獲した。カレドニアは川のアメリカ側にあるブラックロックまで無事に移動させたが、デトロイトはスコー島南端で座礁し、イギリス軍が取り返しに来る前に火を付けた クィーンストン・ハイツの戦い、アッパー・カナダ(11月13日): スティーブン・ヴァン・レンセリア少将の率いたアメリカ軍がナイアガラ川の河口から7マイル (11 km)、西岸(カナダ側)のクィーンストンを占領しようとして大敗した。「アッパー・カナダの英雄」と言われたイギリス軍アイザック・ブロック少将が戦死した フレンチマンズクリークでの小競り合い、アッパー・カナダ(11月28日): アッパー・カナダ侵略の前に、ナイアガラ川を渡る条件を整えるために行われたアメリカ軍の襲撃。その目標はレッドハウスの大砲を使えなくして、アメリカ軍の上陸を砲火に曝されることなく行えるようにすることと、イギリス軍援軍の移動を封じるためにフレンチマンズクリークに架かる橋を破壊することだった。最初の目的は達せられたが、橋の破壊はできなかった アレクサンダー・スミスによるアッパー・カナダ侵攻(11月28日-12月1日): アメリカ軍アレクサンダー・スミス准将のお粗末な作戦と指揮によって生じた失敗。フレンチマンズクリークの戦いの直後と12月1日の2度、スミスはアッパー・カナダ侵略部隊を船に乗せて川を渡ろうとしたが失敗し、作戦そのものを中止した
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アッパー・カナダのヨークでの戦い(4月27日): サケッツ港から派遣されたアメリカ軍水陸協働部隊によるヨーク砦と隣接するヨーク(現在のトロント)の町の比較的容易な占領。アメリカ軍全軍は5月8日までに引き揚げたが、町の大半と植民地議会の建物を略奪し燃やした。後にイギリス軍がアメリカのワシントンD.C.を襲撃して大統領官邸や国会議事堂を燃やしたのは、このヨークでのアメリカ軍の行動に対する報復だった アッパー・カナダのジョージ砦での戦い(5月27日): オンタリオ湖岸ではイギリス軍の最も西にあり、ナイアガラ川河口の砦、ジョージ砦に対し、ナイアガラ川のアメリカ側にあったナイアガラ砦から川を渡った水陸協働部隊の攻撃で占領した アッパー・カナダのストーニー・クリーク沿いの戦い(6月6日): ジョージ砦からは西に約40マイル (64 km)、オンタリオ湖西端に流れ込むストーニー・クリーク河口で宿営していたアメリカ軍に、イギリス軍が夜襲を掛けて勝利した。この敗北により、ジョージ砦のアメリカ軍はアッパー・カナダ深く侵攻する作戦を中止した ニューヨーク州シャーロットに対する2度目の襲撃(6月15日): ジェネシー川河口にあるシャーロットに対し、イギリス軍ジェイムズ・ヨー海軍代将の戦隊から上陸した部隊が、500樽の小麦粉と、200ブッシェル (5,440 kg) のトウモロコシを積んでいた船を抵抗されることなく押収した。 アッパー・カナダのビーバー・ダムズでの戦闘(6月24日): イギリス軍士官が指揮し、インディアン6ないし7部族の戦士によるアメリカ軍部隊の待ち伏せが成功した。アメリカ軍部隊はジョージ砦からビーバー・ダムズ近くのイギリス軍基地を攻撃に向かっている途中だった アッパー・カナダ、ジョージ砦の封鎖(7月1日-10月9日): ストーニー・クリークとビーバー・ダムズで勝利したイギリス軍がジョージ砦を奪還しようとした。この期間に多くの小戦闘(ポール・プロパティなど)と襲撃(ブラックロックなど)が起きた。この封鎖は、カナダ=アメリカ合衆国国境沿いの他所での展開に対応するために中止された。特に10月に始まったウィルキンソンのセントローレンス川方面作戦や、10月5日のアッパー・カナダ、モラビアンタウンでのイギリス軍の敗北(テムズの戦い)が影響した ニューヨーク州シュロッサー砦に対する襲撃(7月5日): イギリス軍がナイアガラ川を渡り、シュロッサー砦を襲撃して成功した。この時に野砲、武器弾薬、砲艦1隻、平底船2隻、食料と土木工作の道具を捕獲し、多くの船を沈めた アッパー・カナダのボール・プロパティでの小競り合い(7月8日-9月6日)、: アッパー・カナダのナイアガラ西で起こった一連の小競り合い。ジョージ砦封鎖中だった ニューヨーク州ブラックロックへの襲撃(7月11日): イギリス軍がジョージ砦封鎖を開始した直後に、ニューヨーク州ブラックロックを襲撃した。襲撃は初めは成功したが、撤退中に大きな損失を出した アッパー・カナダのヨーク襲撃(7月31日、8月1日): アメリカ軍が水陸協働でヨークに侵入し、アメリカ人捕虜を幾らか解放し、軍需物資や多くの平底船を押収した。町を去るときに、ジブラルタルポイントにあった建物群を焼いた。これは6月19日にニューヨーク州ソーダスがイギリス軍によって襲撃されたことの報復だった アメリカ海軍のスクーナー、ハミルトンとスカージの沈没(8月8日): ハミルトンとスカージは激しい嵐の間に沈没した。この両艦はアイザック・ショーンシー海軍代将の戦隊に属し、イギリス海軍ジェイムズ・ヨー海軍代将の戦隊とオンタリオ湖での戦いに向かうところだった。そこはナイアガラ川近く、トウェルブマイル・クリークの北6マイル (10 km) だった。 アッパー・カナダのナンティコーク・クリークでの小競り合い(11月13日): ノーフォーク郡民兵の遠征隊がナンティコーク・クリーク周辺地域活動していたロイヤリスト略奪者を捕獲した。エリー砦の西約60マイル (96 km) のエリー湖近くだった アッパー・カナダのナイアガラ(ニューアーク)の焼き討ち(12月10日、11日): ジョージ・マクルア准将指揮下のアメリカ軍小部隊によるニューアークの謂われの無い焼き討ち。ジョージ砦の指揮にあったマクルアは砦の防御が難しくなったと考え、砦を出てナイアガラ砦に移るときにニューアークの破壊を命じた ニューヨーク州ナイアガラ砦の占領(12月18日、19日): ナイアガラ川河口にあったナイアガラ砦の小勢のアメリカ軍に対し、イギリス軍歩兵部隊が夜襲を掛け、比較的容易に占領した。ナイアガラ砦は戦争終了までイギリス軍が支配した。 ニューヨーク州ブラックロックとバッファローへの襲撃(12月30日): アッパー・カナダのナイアガラ町焼き討ちに対する報復として、イギリス軍はナイアガラ砦を占領した後、襲撃を行ってナイアガラの前線にいた全てのアメリカ軍を壊滅させた。この襲撃でその目標全てを達成し、少なくとも暫くの間はイギリス軍がナイアガラ川地域を完全に支配した
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アッパー・カナダのポートドーバーへの襲撃(5月14日、15日): アメリカ軍部隊によるエリー湖北岸の開拓地に対する襲撃。そこにはナイアガラ半島に駐屯するイギリス軍が使用する製粉所と物資倉庫があった。アメリカ軍部隊は撤退する前に製粉所、倉庫、民家に火を付けた。これは1813年12月にイギリス軍がブラックロックとバッファローを襲撃したことへの報復だった ナイアガラ川でのブラウンの方面作戦(7月-10月): ナイアガラの前線では、アメリカ軍が最もうまく計画し実行した作戦。エリー砦とチッペワでの勝利に始まり、ランディズレーンでは激戦の末に引き分け、エリー砦に引き返して終わった アッパー・カナダのエリー砦占領(7月3日): ジェイコブ・ブラウン少将によるナイアガラ川方面作戦の緒戦。エリー湖にナイアガラ川が注ぐ地点のカナダ側にあったエリー砦で、イギリス軍はあまり戦うこともなく降伏した アッパー・カナダのチッパワの戦い(7月5日): チッパワ・クリークがナイアガラ川に注ぐ地点からそれほど遠くない所で、アメリカ軍部隊が数に勝るイギリス軍と戦って勝利した アッパー・カナダのセントデイビス焼き討ち(7月18日): ニューヨーク州民兵隊の大隊が、クイーンストンハイツに近い村の住人から思いも掛けない激しい抵抗を受けた。そこはジェイコブ・ブラウン少将がチッパワの戦い後に占領しようとしていた場所だった。この戦闘を命令したブラウンは指揮官から解任された アッパー・カナダのランディーズ・レーンの戦い(7月25日): 米英戦争の中でも流血の多かった戦闘。チッパワの戦いの戦場の北、ナイアガラの滝近くで起こった。この戦闘は引き分けたが、損失が大きかったためにアメリカ軍はエリー砦に引き返すことになり、ブラウンによるアッパー・カナダ侵攻作戦が終わった ニューヨーク州コンジョクタ・クリークでの小競り合い(8月3日): ランディーズ・レーンの戦い後に、イギリス軍がブラックロックとバッファローにあるアメリカ軍物資と砲台を破壊しようとした戦い。ブラックロックに行く手前のコンジョクタ・クリークでイギリス軍が敗北し、作戦は失敗に終わった イギリスのブリッグ艦マグネットの破壊(8月15日): イギリス海軍のジョージ・ホークスワース海軍大尉が乗艦のブリッグマグネットを慎重に航走させている時に、サケッツ港から出てきたアイザック・ショーンシー海軍代将の戦隊による捕獲を免れるために、ナイアガラ川河口から遠くないところで座礁させた。ホークスワースは軍法会議を避けて、アメリカ側に脱走した。 アッパー・カナダのエリー砦包囲(8月5日-9月21日): イギリス軍がエリー砦を奪還しようとした試み。ほとんど毎日の小競り合いと8月15日の襲撃失敗で挫折した アメリカのスクーナー、オハイオとサマーズの捕獲(8月12日): ナイアガラを封鎖していたイギリス艦船から1隊のイギリス士官と水兵が出て、エリー砦の北にあるイギリス砲台を砲撃していたアメリカ軍のスクーナー、オハイオとサマーズを捕獲した アッパー・カナダのエリー砦に対する強襲(8月15日): イギリス軍がアメリカ軍の占領するエリー砦を奪還しようとして失敗した。イギリス軍の作戦は複雑なものであり、まず砲撃に始まり、インディアン戦士からなる部隊の陽動攻撃が続き、南、西、北からの協調した夜襲が行われることになっていた。砦内部には予想より大勢のアメリカ軍が居り、統率も良く取られていた アッパー・カナダのエリー砦からの出撃(9月17日): イギリス軍の強襲が失敗した後も、砦への砲撃を続けていた砲台に対するアメリカ軍の逆襲。この戦闘では両軍共に大きな損失を出した。戦闘から間もなく、イギリス軍は包囲を解いて、チッパワの陣地に退却した アッパー・カナダのクックスミルズでの小競り合い(10月19日): ナイアガラ半島では最後の戦闘。ライアンズ・クリークの小戦闘とも呼ばれる。イギリス軍がエリー砦に対する包囲を解いた後、アメリカ軍がクックスミルズにあったイギリス軍の物資を破壊しようとした。穀物200ブッシェル (5,440 kg) を破壊するという、そこそこの成果になった
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