ナイアガラの前線、1813年
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「米英戦争のカナダ戦線」の記事における「ナイアガラの前線、1813年」の解説
陸路の情報伝達が困難であるため、五大湖とセントローレンス川回廊が重要なことであり、両軍とも1812年から1813年にかけての冬は造船に励んだ。アメリカはイギリスよりも造船能力がはるかに勝っていたが、開戦前はこの利点を生かせずイギリスの後塵を拝していた。1814年9月までにイギリスはこの米英戦争中では最大の戦艦HMSセントローレンスを進水させた。 1813年4月27日、アメリカ軍がアッパー・カナダの首都ヨーク(現在のトロント)を焼き討ちし、議会議事堂や図書館を焼き払った。しかし、イギリス軍のセントローレンス川沿いの補給と情報伝達には、オンタリオ湖の東端キングストンの方が戦略的に重要であった。キングストンを支配していなければ、アメリカ海軍は効果的にオンタリオ湖を支配できず、ローワー・カナダからのイギリス軍の補給線を分断することが叶わなかった。 5月27日、アメリカ軍の水陸両面作戦によりオンタリオ湖からナイアガラ川北端のジョージ砦を攻撃し、大きな損失もなく占領した。しかし、撤退するイギリス軍を追わなかったために、大量の脱出を許し、再組織されたイギリス軍が6月5日のストーニー・クリークの戦いで反撃した。6月24日、王党派の女性ローラ・セコールの通報に助けられて、イギリス軍はビーバー・ダムズの戦いで、イギリス軍とインディアン合わせても数的に劣勢であったにも拘わらず、別のアメリカ部隊を降伏させた。アメリカ軍はアッパー・カナダの侵攻を中止した。 12月10日、アメリカ軍の将軍マックルアによるニューアーク(今日のナイアガラオンザレイク)の焼き討ちは、市民の家屋が主に破壊されたためにイギリス人やカナダ人を怒らせた。多くの者は隠れ場所もなく雪の中で凍えて死ぬ者もいた。これに対する報復としてイギリス軍は12月30日にニューヨーク州バッファローの町を同じように破壊した。 オンタリオ湖では、ジェイムズ・ルーカス・ヨー卿が1813年5月15日に指揮を執り、アイザック・ショーンシー指揮のアメリカ軍よりも行動性には富むが攻撃性には劣る部隊を作り上げた。ヨーとジョージ・プレボスト総督が仕掛けたサケッツ港の戦いは反撃された。8月と9月に行われた3回の湖上戦はどれも決着が着かなかった。 1814年にヨーが作り上げた戦艦HMSセントローレンスは搭載大砲112門の一級船であり、イギリスの水軍力を優位にし、オンタリオ湖を支配させた。
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