ディエゴ・ベラスケスとは? わかりやすく解説

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ベラスケス【Diego Rodríguez de Silva y Velázquez】

読み方:べらすけす

[1599〜1660]スペイン画家近代絵画先駆をなす主知的な色彩法と深い人間観察により、肖像画多く残した。作「女官たち」など。

ベラスケスの画像 ベラスケスの画像
女官たち(1656)/プラド美術館https://bit.ly/31GFuug
ベラスケスの画像 ベラスケスの画像 ベラスケスの画像 ベラスケスの画像
卵を焼く老女(1618)/スコットランド国立美術館https://bit.ly/31Dy7nj
ベラスケスの画像
ブレダの開城(1635頃)/プラド美術館https://bit.ly/2XNJWpT

ディエゴ・ベラスケス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/17 01:03 UTC 版)

ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599年6月6日(洗礼日) - 1660年8月6日)は、バロック期のスペイン画家エドゥアール・マネが「画家の中の画家」と呼んだベラスケスは、スペイン絵画の黄金時代であった17世紀を代表する巨匠である[1]


  1. ^ 「新潮 世界美術事典」pp1323-1324 新潮社 昭和60年2月20日発行
  2. ^ 大高保二郎『ベラスケス』(岩波新書、2018年)p237。Otaka, Yasujiro (2000年9月). “An Aspiration Sealed”. Special Issue: Art History and the Jew. Studies in Western Art. 2007年12月8日閲覧。
  3. ^ SAMUEL, EDGAR (17 June 1996). “The Jewish ancestry of Velasquez”. Jewish Historical Studies 35: 27–32. doi:10.2307/29779978. https://www.jstor.org/stable/29779978.    Ingram, Kevin (1999)."Diego Velázquez's Secret History", Boletín del Museo del Prado, XVII (35): 69–85.  Newitt, Malyn (2009). Portugal in European and World History. London: Reaktion Books. p. 98. ISBN 9781861895196
  4. ^ ノリス・マクワーター, ed (1978). ギネスブック 世界記録事典 79年度版. 講談社. p. 124 
  5. ^ 「スペイン文化事典」pp122-123 川成洋・坂東省次編 丸善 平成23年1月31日発行
  6. ^ 『新訂増補 スペイン・ポルトガルを知る事典』pp312-314 平凡社 2001年10月24日新訂増補第1刷
  7. ^ 大高『ベラスケス』(2018年)p126。
  8. ^ a b 作品紹介3 『バリェーカスの少年』 ディエゴ・ベラスケスプラド美術館展ニュース、美術館ナビ、2017.10.24
  9. ^ “1年前に発見されたベラスケスの絵画、3.7億円で落札 英国”. AFPBB News. (2011年12月8日). https://www.afpbb.com/articles/-/2844558?pid=8176258 2020年2月27日閲覧。 


「ディエゴ・ベラスケス」の続きの解説一覧

ディエゴ・ベラスケス (1)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 05:02 UTC 版)

スペイン黄金時代美術」の記事における「ディエゴ・ベラスケス (1)」の解説

ディエゴ・ベラスケスは1599年セビリア生まれる。貴族家系年代記作者書いているものの具体的な根拠はなく、ポルトガルから来たコンベルソキリスト教改宗したユダヤ教徒)の家系とされる同郷画家パチェーコのもとで研鑽を積む初期の作品はやはりボテゴンの絵が主であるが、その高い技術力からセビリアにいたころから宮廷の目に留まっていた。1623年マドリード行った際オリバール伯爵ガスパール・デ・グスマン紹介フェリペ4世肖像画描き、若い国王気に入られ宮廷呼ばれる1627年に『スペインからモリスコ追放するフェリペ三世』(現存せず)のコンペティションが行われ、長老格のビセンテ・カルドゥチョそうそうたる顔ぶれの中ベラスケス参加し、見事勝利した以降フェリペ4世絶大な信頼を受け宮廷画家として確固たる地位早くも掴んだのである。 彼は敵を作らないよう控えめ過ごしていたが、絵画研究惜しまなかった。オランダ絵画版画通じて学び取り1628年ルーベンスマドリード長期滞在した際に親交結んだベラスケスルーベンスから深い影響を受け、彼の技法構図まねたりしている。『バッカス』がこの頃代表作また、ルーベンスの「イタリアに行くといい」という助言を受けすぐさまイタリアへ行くというほど彼を尊敬していた。 1629年外交官役割兼ねながら、ヴェネツィアフェッラーラナポリそしてローマに最も長く滞在したイタリア巨匠たちの絵画どん欲吸収して1630年帰ってきた。しかし単なる技法習得だけではなく様式まで学び取りスペイン宮廷でこれまで見たことのない大胆な背景用いた絵を描くうになる。彼自身その後王宮装飾など手掛けるが、時代的ネーデルランドフランスとの相次ぐ戦争があり、戦争主題にした絵をたくさん描いている。カルドゥチョら先行作品学び描いているが1634年『ブレダの開城』敵味方対等に描かれており斬新な表現なされている画期的な傑作であった。鍵を渡す際の図像劇作家カルデロンの『ブレダの包囲戦』という作品一節から来ているとされる。 カルドゥチョやカヘスら長老亡くなると、ベラスケス宮廷画家として絶大な力を持つことになる。王室コレクション管理画家招聘など様々な業務行っている。1636年から1640年まで王室周辺の人物肖像画神話古代の人物たちを描いている。とうに存在していない人物であっても現実写し取ったのような迫真性は、肖像画極致といわれる。彼は宮廷画家であるが宗教画比較描いていないことも特筆される無論宗教画需要多かったので同時代にはアントニオ・デ・ペレーダフライ・フアン・リシなどの宗教画家が活躍していた。

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「ディエゴ・ベラスケス (1)」を含む「スペイン黄金時代美術」の記事については、「スペイン黄金時代美術」の概要を参照ください。


ディエゴ・ベラスケス (2)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 05:02 UTC 版)

スペイン黄金時代美術」の記事における「ディエゴ・ベラスケス (2)」の解説

ベラスケスは、相次ぐ戦争最中でも宮廷画家仕事全うしている。それどころティツィアーノルーベンス研究し、より成熟した作品を創り上げた1648年の『ヴィーナスキューピット』ではスペイン絵画として珍しい女性裸体描かれている。これはティツィアーノ宮廷コレクションのこした『ポエジア』という神話連作から着想得ており、彼とルーベンス裸体表現参考仕上げている。この頃から精力的に宮廷コレクション整理し始めるので、それまで蓄積され巨匠たちの絵画直に触れられる機会ができたのは大きかった1649年から再度ヴェネツィア行きそれからローマ1651年まで滞在したイタリア絵画買い付けだけでなく外交官としての仕事果たしていたとされる。彼は1650年教皇インノケンティウス10世面会しインノケンティウス10世の肖像』を描きあげ、彼の肖像画で最もすぐれた作品のひとつとされる。また当時ローマではやはりフランスクロード・ロランらが戸外での製作をしていたので、それを参考ベラスケス戸外ローマ風景描いた作品残している。このように彼の名声は全ヨーロッパ広がりつつあり、教皇英国王チャールズ一世コレクション収められるようになった王宮装飾など様々な仕事精力的にこなすベラスケス対しフェリペ4世名誉あるサンチャゴ騎士団称号与えよう思い始める。身元調査などを秘密裏行い1658年サンチャゴ騎士団員になる。一画家では到底なりえない名誉を手にする時期周辺描かれたのが『ラス・メニーナス』である。自身肖像描きこまれているがそこにある騎士団マークは、授爵されてから付け加えたのである晩年も全く衰えことなく大作完成させていった1660年長年続いたフランスとの戦争終わりフェリペ4世の娘マリー・テレーズルイ14世婚儀取り仕切る仕事し終える熱病倒れマドリードでその栄光満ちた生涯終えた

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ディエゴ・ベラスケス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:20 UTC 版)

アラトリステ (映画)」の記事における「ディエゴ・ベラスケス」の解説

ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケスは「スペイン黄金世紀」の絵画代表する画家のひとり。セビリア生まれ1623年24歳宮廷画家取り立てられ以後マドリードで暮らす。1629年に船でイタリア旅した際にベラスケス4年前にブレダの包囲戦指揮したアンブロジオ・スピノラ同船している。スピノラネーデルラント政策めぐってオリバーレス公伯爵対立し前年司令官職を解任されスペイン戻りイタリア赴任する途中であったが翌年病死するベラスケス6年後の1635年ブレダでのスペイン軍戦勝描いたブレダの開城」を制作した。さらに2年後ブレダの町はオランダに奪い返されている。

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