スターダムへ
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1931年、コロムビアへ移籍し、古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がヒット。淡谷はコロムビアでは映画主題歌を中心に外国のポピュラーソングを吹込む。1935年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となる。 日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒット、スターダムへ登りつめた。ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌う。 その後も数々の曲を世に送り出し、名を轟かせた(なお、この頃のバックバンドのメンバーには、日本のジャズの父と言われるティーブ・釜萢がいた。)。その当時、淡谷のピアニストを務めていた和田肇(1908〜87)と1938年に結婚するが、翌年に離婚。その後は生涯独身であった。なお、淡谷には娘が一人いるが、和田との間の子供ではない。
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スターダムへ(1994年~1999年)
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「デイヴ・マシューズ・バンド」の記事における「スターダムへ(1994年~1999年)」の解説
1994年に初のライブEP「Recently」をリリース。1994年9月20日にはデビュー・アルバム「Under the Table and Dreaming」を発表。ブルース・トラベラーのジョン・ポッパーをハーモニカにフューチャーした”What Would You Say"は初のヒット曲となった。アルバムは”アンに捧ぐ”とされ、夫の自殺の際に巻き添えで殺害された姉のアンへの追悼アルバムとなった。1995年グラミー賞でベスト・ロック・パフォーマンス、"What Would You Say"でベスト・ロック・ビデオでノミネートされた。 次作の「Crash」で1996年グラミー賞でベスト・ロック・アルバム、 "Too Much"でベスト・ロック・ソングにノミネート。”So Much to Say"はベスト・ロック・パフォーマンスでグラミー賞を受賞している。 1997年、初のフル・ライブ・アルバム「Live at Red Rocks 8.15.95.」を発表。エレクトリック・ギターでティム・レイノルズが参加している。 1997年後半にはバンドはスティーブ・リリーホワイトをプロデューサーに迎え、ティム・レイノルズ、ベラ・フレック、アラニス・モリセットなど多数のゲスト・ミュージシャンのもと3作目の「Before These Crowded Streets」の制作を行った。1998年4月28日にリリースされたサード・アルバムは高揚感のあるゴスペル調の"Stay (Wasting Time)"、ラブ・バラードの"Crush"、ファースト・シングルでヒットした"Don't Drink the Water"などで既存のアルバムと一線を画す充実した内容となり、発売後1週間で90万枚のセールスを記録した(2018年時点で全世界で2100万枚のセールス)。 2019年にはウッドストック99への出演、秋には3枚目のライブ・アルバムであり初のライブDVDとなった「Listener Supported」をリリース。1999年のグラミー賞は"Before These Crowded Streets"でベスト・ロック・アルバム、"Crush"でベスト・ポップ・アルバム・コラボレーション・ウィズ・ボーカルでノミネーションを受けている。
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スターダムへ
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「アイク&ティナ・ターナー」の記事における「スターダムへ」の解説
「ア・フール・イン・ラヴ」はアイク・アンド・ティナ・ターナー・レビューのファーストシングルとして1960年冬にリリース。ビルボードのホットR&Bチャートの2位、アメリカン・ポップ・シングル・チャートの27位にまで達するヒットとなり、2人は一躍全米クラスの知名度を得る。翌1961年にリリースした、ローズマリー・マッコイ作のセカンド・シングル「イッツ・ゴナ・ワークアウト・ファイン」(It's Gonna Work Out Fine)は、前作に続きホットR&Bチャートの2位、アメリカン・ポップ・シングル・チャートの14位にまで上昇した(この曲にはバックグラウンド・ボーカルとして、一発屋のデュオミッキー&シルヴィアのミッキーが協力している)。この曲で、2人のコンビは早くも初のグラミー賞ノミネートという快挙を成し遂げる。 1962年の3枚目のヒット「プア・フール」(Poor Fool)も38位まで上昇。しかしながら、彼らの人気を後押ししたのはチャートアクションのみならず、一連のエキサイティングなショウによるところも大きかった。彼らは『シンディグ!』(Shindig!)、『ハリウッド・ア・GoGo』、『アメリカン・バンド・スタンド』などのテレビ上にも積極的に露出し、ティーンエイジャーたちを熱狂させた。1960年代の半ばまでにアイク&ティナ・ターナー・レビューは国民的人気を獲得した。 1966年、フィル・スペクターのフィリーズ・レコードと契約。「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」(River Deep – Mountain High)をレコーティング(アイクは録音に参加せず、ティナの単独レコーディング)。アメリカではBillboard Hot 100の88位までしか上がらずスペクターを失望させたが、イギリスで3位まで上昇する大ヒットとなり、これがきっかけとなってローリング・ストーンズの1966年と1969年のアメリカ・ツアーのサポートアクトに抜擢され、2人は国際的スターへの足がかりをつかむ。 1969年には、ブルース色の強い「オウタ・シーズン」(Outta Season)と、アルバート・キングのカバー「ザ・ハンター」(The Hunter)のリリースでより大きなチャートアクションを獲得。ティナはアルバム『ザ・ハンター』からの「ボールド・ソウル・シスター」(Bold Soul Sister)でグラミー賞ベストR&B女性ボーカルに2度目のノミネートを受ける。 1970年、『エド・サリヴァン・ショー』に出演、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのカバー「プラウド・メアリー」と「ボールド・ソウル・シスター」を披露した。「プラウド・メアリー」は1971年春にシングルとしてリリースされ、ポップシングル・チャートで4位まで上昇し、アメリカのチャートにおける過去最高位を記録、1972年にグラミー賞を獲得した。
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スターダムへ
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フィッシャーはトーマスをジーグフェルド・フォリーズ (Ziegfeld Follies) に雇ってくれるよう、フローレンツ・ジーグフェルドに推薦状を書いた。しかし後にトーマスは自分は正面から乗り込んで仕事を求めたのだと主張し、これに異議を唱えた。彼女はニュー・アムステルダム劇場 (New Amsterdam Theatre) の屋上庭園で営業時間後に行われたリスケイ・ミッドナイト・フロリック(risqué Midnight Frolic - 浮かれてわいせつじみた夜中のショー)に頻繁に出演した。この時期に他のフォーリーズのレビューショーに出演していた女優や女性ダンサーと同じように、彼女も当たり前のようにジーグフェルドの愛人になっていた。なおフォリーズとは異なりミッドナイト・フォリーズの女性たちは、いかに露出度の高い扮装をしていようとも、舞台上での厳格な礼節を維持した。演者たちは風船だけを身にまとい、事実上全ての男性の観客にシガーで風船を破裂させる機会を与えていた。トーマスの評判は、後にピックフォード家が彼女を拒絶した理由であると考えられている。しかし世間の人々は彼女たちに眉をひそめる事は無かった。高級娼婦から伯爵夫人となったセレステ・モガドール (Céleste Mogador)、同じく高級娼婦からプリンセス・ギカとなったリアーヌ・ド・プジー、伝説的な女優サラ・ベルナールなどのかつての舞台女優たちも、同じような下積み時代をおくっている。 ミッドナイト・フロリックは、主として高名な男性パトロンたちが若く美しい女優たちに多くの金品を贈るショーであった。やがて現代の美的感覚から見れば太り気味で短足のすこぶる見栄えが悪い体型ながら、当時のアメリカ人から見れば生き生きとして魅力に溢れ、かつ肉感的に見えたトーマスはコンデ・ナスト (Condé Nast) の関係者から注目を集めるようになった。彼女はすぐに自分が数人の非常に裕福で精力的な男性につきまとわれているのを感じた。トーマスはファンからの高価な贈り物を受け取った。ドイツの大使が10,000ドルの真珠のネックレスを贈ったという噂もあった。
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