サン・フランシスコ号の遭難とは? わかりやすく解説

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サン・フランシスコ号の遭難

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 05:48 UTC 版)

日西墨三国交通発祥記念之碑」の記事における「サン・フランシスコ号の遭難」の解説

1609年7月25日、前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサ(在任1608年 - 1609年。姓はビベロ、名はロドリゴだが、日本ではドン・ロドリゴの名で言及されることが多い)は、任期終了にともない帰国するため、太平洋横断してアカプルコへと向かうマニラ・ガレオン艦隊乗船しルソン島のカビーテを出航した。ところが、艦隊8月10日マリアナ諸島附近暴風雨遭遇し以後、2か月近くわたって立てつづけの暴風雨翻弄され続ける。ロドリゴ乗っていたガレオン船サン・フランシスコ号は、9月30日慶長14年9月3日22時頃、岩和田附近岩礁座礁し、翌10月1日朝に沈没した遭難者たちは海岸泳ぎ着いて現地人々救助された。遭難者中にいた日本人キリシタン通訳となり、彼らは、その地が日本の、大多喜藩領の岩和田に近い海岸であることを教えられた。 ロドリゴの上陸地点は岩和田田尻海岸とされ、「ドン・ロドリゴ上陸地」として1966年昭和41年12月2日付で千葉県指定史跡指定されている。なお、中村国香房総志料』巻3などの日本史料では、事故発生慶長14年9月5日1609年10月2日となっている。これは当時フィリピン植民地ではヌエバ・エスパーニャと同じ日付用いており、同経度他の国々とは日付1日ずれていたためである(国際日付変更線#1844年フィリピン参照)。 乗組員373名のうち56名が溺死317名が救命され、近く大宮寺という寺に収容された。ロドリゴは、岩和田貧し村人たちが、綿入りの着物食料気前よく提供してくれたことを述べている。もっともその一方サン・フランシスコ号船長フアン・デ・セビーコスは、日本人サン・フランシスコ号の、価格にして50ペソ以上になる積荷一方的に没収したこと、将軍命令により遭難35日後の11月6日なって返還されたものの、その間大部分盗まれてしまったことなどを証言している。 数日後大多喜城地図)の城主本多忠朝岩和田訪れロドリゴ一行見舞ったロドリゴその後大多喜経由して江戸向かい江戸で将軍徳川秀忠駿河大御所徳川家康それぞれ面会したこの際ロドリゴ家康に対してカトリック教会礼遇スペインとの友好オランダ人追放求めたのに対し家康オランダ人追放については難色示した上でヌエバ・エスパーニャとの直接交易と、ヌエバ・エスパーニャからの鉱山技師派遣求めた1609年12月20日ロドリゴ家康は、スペイン人関東の港への入港許可すること、ヌエバ・エスパーニャとの直接交易を行うこと、ヌエバ・エスパーニャから銀山技師派遣すること、宣教師保護すること、スペイン日本の港の測量許可すること、等の協定結んだロドリゴのほか、家康使節アロンソ・ムニョスフランシスコ会日本管区長)、日本人商人田中勝介らの乗った日本製ガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラは、1610年8月1日慶長15年6月13日)に浦賀出帆10月27日にマタンチェル(現在のナヤリット州サン・ブラス(英語版))に寄港11月13日アカプルコ入港した。 しかし、日本ヌエバ・エスパーニャとの直接交易については、スペイン側では、マニラ・ガレオンとの競合によりフィリピン植民地経済的ダメージ与え恐れがあること、造船航海技術を身につけた日本人フィリピンへの野心抱きかねないこと、などを理由とする反対意見強かった慶長16年1611年)、ロドリゴ救助対すヌエバ・エスパーニャ副王からの答礼使節として、セバスティアン・ビスカイノ浦賀来航する。しかし、翌慶長17年1612年)に岡本大八事件発覚幕府キリシタン禁教政策本格化させたことで、日本との交渉不調に終わった慶長18年1613年)、フランシスコ会修道士ルイス・ソテロ伊達政宗家臣支倉常長からなる慶長遣欧使節、およびビスカイノ一行乗った日本製ガレオン船サン・ファン・バウティスタ号が、陸奥国月浦出航しアカプルコ渡航したが、使節性格曖昧さや、日本でのキリシタン迫害などが原因となってスペイン本国での交渉失敗終わった元和元年1615年)、サン・ファン・バウティスタ号スペイン国王使節としてフランシスコ会士ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナを乗せ日本戻った。しかしディエゴ1617年元和3年)、サン・ファン・バウティスタ号アカプルコ送還され、これを最後に日本ヌエバ・エスパーニャとの直接交渉事実上打ち切られる。その後寛永元年1624年)、幕府スペイン船の来航全面禁止スペイン側も、1635年2月16日対日交易永久閉鎖決定した

※この「サン・フランシスコ号の遭難」の解説は、「日西墨三国交通発祥記念之碑」の解説の一部です。
「サン・フランシスコ号の遭難」を含む「日西墨三国交通発祥記念之碑」の記事については、「日西墨三国交通発祥記念之碑」の概要を参照ください。

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