サン・フランシスコ号の遭難
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「日西墨三国交通発祥記念之碑」の記事における「サン・フランシスコ号の遭難」の解説
1609年7月25日、前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサ(在任1608年 - 1609年。姓はビベロ、名はロドリゴだが、日本ではドン・ロドリゴの名で言及されることが多い)は、任期の終了にともない帰国するため、太平洋を横断してアカプルコへと向かうマニラ・ガレオン艦隊に乗船し、ルソン島のカビーテを出航した。ところが、艦隊は8月10日にマリアナ諸島附近で暴風雨に遭遇し、以後、2か月近くにわたって、立てつづけの暴風雨に翻弄され続ける。ロドリゴの乗っていたガレオン船サン・フランシスコ号は、9月30日(慶長14年9月3日)22時頃、岩和田附近の岩礁で座礁し、翌10月1日朝に沈没した。遭難者たちは海岸に泳ぎ着いて現地の人々に救助された。遭難者の中にいた日本人キリシタンが通訳となり、彼らは、その地が日本の、大多喜藩領の岩和田村に近い海岸であることを教えられた。 ロドリゴの上陸地点は岩和田の田尻海岸とされ、「ドン・ロドリゴ上陸地」として1966年(昭和41年)12月2日付で千葉県指定史跡に指定されている。なお、中村国香『房総志料』巻3などの日本側史料では、事故の発生は慶長14年9月5日(1609年10月2日)となっている。これは当時、フィリピン植民地ではヌエバ・エスパーニャと同じ日付を用いており、同経度の他の国々とは日付が1日ずれていたためである(国際日付変更線#1844年のフィリピンを参照)。 乗組員373名のうち56名が溺死、317名が救命され、近くの大宮寺という寺に収容された。ロドリゴは、岩和田の貧しい村人たちが、綿入りの着物や食料を気前よく提供してくれたことを述べている。もっともその一方、サン・フランシスコ号船長フアン・デ・セビーコスは、日本人がサン・フランシスコ号の、価格にして50万ペソ以上になる積荷を一方的に没収したこと、将軍の命令により遭難35日後の11月6日なって返還されたものの、その間に大部分が盗まれてしまったことなどを証言している。 数日後に大多喜城(地図)の城主本多忠朝が岩和田村を訪れ、ロドリゴ一行を見舞った。ロドリゴはその後、大多喜を経由して江戸に向かい、江戸で将軍徳川秀忠、駿河で大御所徳川家康にそれぞれ面会した。 この際、ロドリゴが家康に対してカトリック教会の礼遇、スペインとの友好、オランダ人の追放を求めたのに対し、家康はオランダ人追放については難色を示した上で、ヌエバ・エスパーニャとの直接交易と、ヌエバ・エスパーニャからの鉱山技師の派遣を求めた。1609年12月20日、ロドリゴと家康は、スペイン人に関東の港への入港を許可すること、ヌエバ・エスパーニャとの直接交易を行うこと、ヌエバ・エスパーニャから銀山技師を派遣すること、宣教師を保護すること、スペインに日本の港の測量を許可すること、等の協定を結んだ。ロドリゴのほか、家康の使節アロンソ・ムニョス(フランシスコ会日本管区長)、日本人商人田中勝介らの乗った日本製ガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラは、1610年8月1日(慶長15年6月13日)に浦賀を出帆、10月27日にマタンチェル(現在のナヤリット州サン・ブラス(英語版))に寄港、11月13日にアカプルコに入港した。 しかし、日本とヌエバ・エスパーニャとの直接交易については、スペイン側では、マニラ・ガレオンとの競合によりフィリピン植民地に経済的ダメージを与える恐れがあること、造船・航海技術を身につけた日本人がフィリピンへの野心を抱きかねないこと、などを理由とする反対意見が強かった。慶長16年(1611年)、ロドリゴの救助に対するヌエバ・エスパーニャ副王からの答礼使節として、セバスティアン・ビスカイノが浦賀に来航する。しかし、翌慶長17年(1612年)に岡本大八事件が発覚、幕府がキリシタン禁教政策を本格化させたことで、日本との交渉は不調に終わった。慶長18年(1613年)、フランシスコ会修道士ルイス・ソテロ、伊達政宗の家臣支倉常長らからなる慶長遣欧使節、およびビスカイノ一行の乗った日本製ガレオン船サン・ファン・バウティスタ号が、陸奥国月浦を出航しアカプルコに渡航したが、使節の性格の曖昧さや、日本でのキリシタン迫害などが原因となって、スペイン本国での交渉は失敗に終わった。 元和元年(1615年)、サン・ファン・バウティスタ号はスペイン国王使節としてフランシスコ会士ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナを乗せ日本に戻った。しかしディエゴは1617年(元和3年)、サン・ファン・バウティスタ号でアカプルコに送還され、これを最後に日本とヌエバ・エスパーニャとの直接交渉は事実上打ち切られる。その後、寛永元年(1624年)、幕府はスペイン船の来航を全面禁止。スペイン側も、1635年2月16日に対日交易の永久閉鎖を決定した。
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