ゴードンの到着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 14:07 UTC 版)
「ムハンマド・アフマド・アル=マフディー」の記事における「ゴードンの到着」の解説
ゴードンは1884年2月にハルトゥームに到着した。アル=マフディーヤに当惑していた近隣の部族の多くは、当初のうちは、彼の到着を歓呼の声で迎えた。北方への通行は依然変わらず行われており、電信設備も損なわれていなかった。しかしながら、ゴードンの到着直後に発生したベジャ人の蜂起により事態は大きく変わった。通信の手段が飛脚に限られることになった。 ゴードンは、北へ通じる道が立て篭っている人々を救出するには危険すぎると考え、撤退を支える援軍をカイロから送るよう、イギリス政府に圧力をかけた。また、かつて自分の仇敵、アル=ズバイル・ラフマ・マンスールがスーダンを支配することを黙認することも提案した。これは有能な軍人であったアル=ズバイルがアンサールたちへの有効なカウンターとなることを意図してのことであった。イギリス政府はゴードンの提案を2つとも拒絶したため、彼は交戦の準備を始めた。 1884年3月、ゴードンはエジプトへ通じる北方への街道の掃討作戦に打って出ることにした。しかしながら、エジプト軍の将校の相当数が敵方に寝返ったり、たった1回の一斉射撃を受けただけで戦場から逃げ出したりした。ゴードンは守備的な作戦しか遂行しえないことを悟り、ハルトゥームへ帰還し、陣地を築くことにした。 1884年4月までにゴードンは北方への長旅に耐えうる2,500名あまりの外国人の避難を何とかやり終えた。この避難任務を遂行したのはスチュアート大佐率いる機動部隊であったが、ハルトゥームに戻ってきたときには200名前後のエジプト軍人が減っていた。彼らはちょっとした挑発にも驚いて降参したり逃げ出したりしたためであった。
※この「ゴードンの到着」の解説は、「ムハンマド・アフマド・アル=マフディー」の解説の一部です。
「ゴードンの到着」を含む「ムハンマド・アフマド・アル=マフディー」の記事については、「ムハンマド・アフマド・アル=マフディー」の概要を参照ください。
ゴードンの到着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 10:08 UTC 版)
ゴードンは1884年2月18日にハルツームに到着したが、任務は予想より遥かに困難であった。守備隊は各地に散らばっており、その道中もマフディー軍が隙間なく行動していたため、撤退中も急襲を受ける危険性があった。援軍の必要性を感じたゴードンは名目上エジプトがまだオスマン帝国領であることを理由にオスマン帝国に援軍を要請したが当時のスルタン、アブデュルハミト2世はこれを拒否した。そこでゴードンはインドのムスリム部隊の派遣を本国に求めるもスーダンからの撤退を望む英国政府により却下された。そこでせめて200人のイギリス兵を援軍として求めたがこれさえも拒否された。これらによりゴードンはグラッドストンに不信感を覚え、元々反乱軍との徹底抗戦を主張していたこともあって輸送初段の欠如(実際不足していた)を理由にハルツームに籠城することを決意した。この時ハルツームには守備隊だけでなく在スーダンのイギリス人の大半が滞在していたため、この都市は何としても避けなければならなかった。
※この「ゴードンの到着」の解説は、「ハルツーム包囲戦」の解説の一部です。
「ゴードンの到着」を含む「ハルツーム包囲戦」の記事については、「ハルツーム包囲戦」の概要を参照ください。
- ゴードンの到着のページへのリンク