キャヴェンディッシュ家とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > キャヴェンディッシュ家の意味・解説 

キャヴェンディッシュ家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/18 07:25 UTC 版)

キャヴェンディッシュ家の紋章

キャヴェンディッシュ家英語: Cavendish family[ˈkævəndɪʃ])は、イギリス貴族の家系。16世紀宗教改革時代の修道院解散で巨万の富を築き、17世紀から貴族に列した。2020年現在世襲貴族の爵位を持つキャヴェンディッシュ家にデヴォンシャー公爵家(イングランド貴族)、ウォーターパーク男爵家(アイルランド貴族)、チェシャム男爵家(グレートブリテン貴族)の3つがある。またデヴォンシャー公爵家の分流の一人ヒュー・キャヴェンディッシュ英語版1990年一代貴族ファーネスのキャヴェンディッシュ男爵に叙位されている。かつてニューカッスル=アポン=タイン公爵(イングランド貴族)を保有した分家もあったが、これは廃絶している。

歴史

貴族になる前のキャヴェンディッシュ家

「キャヴェンディッシュ」の名はアングロサクソン語に由来し、サフォークキャヴェンディッシュ英語版の地名に由来する[1]。ここは1086年ドゥームズデイ・ブックにKavandiscとして記録され、1242年にはCavenedisと記録されている[1]。この言葉は「Cafnaの牧草地」を意味する[1]。Cafnaというのは7世紀以前の古い個人名であり、「大胆」を意味するCafから派生した言葉である[1]。ediscは囲い込む牧草地を意味する[1]。その後「Candish」や「Cavendish」と表記されるようになった[1]

キャヴェンディッシュ家はノルマン騎士ロバート・ド・ジャーノン(Robert de Gernon)の子孫にあたる。このロバートの息子のグリムストン・ホール(Grimston Hall)のロバート・ド・ジャーノンは、キャヴェンディッシュのジョン・ポトン(John Potton)の女子相続人と結婚し、キャヴェンディッシュの土地を手に入れた。その息子たちがキャヴェンディッシュの土地の名を姓にするようになった[2]

キャヴェンディッシュ家の祖であるサー・ジョン・キャヴェンディッシュ英語版(1346頃–1381)は、リチャード2世の治世の1372年から1381年にかけて王座部裁判所長官英語版を務めたがワット・タイラーの乱で殺害されている[2]。その子孫のトマス・キャヴェンディッシュ (-1523)ヘンリー8世の時代に財務控訴裁判所(Court of Exchequer)のパイプ・ロール書記官を務めた[2]。その息子ジョージ・キャヴェンディッシュ英語版(1500–1562頃)は枢機卿トマス・ウルジーの伝記を書いた[2]。その弟ウィリアム・キャヴェンディッシュ(1505–1557)は、財務省官僚として修道院解散による土地没収からの横領でキャヴェンディッシュ家の巨額の財を築いた[2]。その3番目の妻ハードウィックのベス英語版は、エリザベス1世時代に最も有力な人物の一人となった[2]。彼らは1549年ダービーシャーチャッツワース英語版の土地を購入し、1552年に同地にチャッツワース・ハウスを建設した[2]

夫妻の長男ヘンリー・キャヴェンディッシュ英語版(1550–1616)の子孫はウォーターパーク男爵家となり[2]、お気に入りの次男ウィリアム・キャヴェンディッシュ英語版(1552–1626)は、1608年にベスが死去した時にノッティンガムシャーのワークソップ英語版オールドコーツ英語版、チャッツワースやハードウィック・ホール英語版といった重要な4つの邸宅を相続し、デヴォンシャー公爵家(とその分流チェシャム男爵)の祖となる[2]。三男チャールズ・キャヴェンディッシュ(1553頃–1617)は、ニューカッスル=アポン=タイン公爵家(後に廃絶)の祖となった[2]

デヴォンシャー公キャヴェンディッシュ家

ウィリアム・キャヴェンディッシュは、1605年5月4日イングランド貴族ハードウィックのキャヴェンディッシュ男爵(Baron Cavendish of Hardwicke)1618年8月7日デヴォンシャー伯爵(Earl of Devonshire)に叙位された[3]。その曽孫ウィリアム・キャヴェンディッシュ(1640–1707)は、名誉革命の貢献で1694年5月12日イングランド貴族デヴォンシャー公爵(Duke of Devonshire)ハーティントン侯爵(Marquess of Hartington)に叙位された。その後分流の貴族が爵位を継承した関係で連合王国貴族バーリントン伯爵ケイリーのケイリーのキャヴェンディッシュ男爵(Baron Cavendish of Keighley, of Keighley)も従属爵位に加えて2020年現在まで存続している。チャッツワース・ハウスも所有し続けている。2020年現在の当主は第12代デヴォンシャー公爵ペリグリン・キャヴェンディッシュ英語版(1944-)である[4]

ニューカッスル公キャヴェンディッシュ家

チャールズ・キャヴェンディッシュの子ウィリアム・キャヴェンディッシュ(1592–1676)1620年10月29日にイングランド貴族ノッティンガム州におけるマンスフィールドのマンスフィールド子爵(Viscount Mansfield, of Mansfield in the County of Nottingham)ノーサンバーランド州におけるボサルのボサルのオーグル男爵(Baron Ogle of Bothal, of Bothal in the County of Northumberland)に叙位され、1628年3月7日ニューカッスル=アポン=タイン伯爵(Earl of Newcastle-upon-Tyne)ダービー州におけるボルソーバーのキャヴェンディッシュ男爵( Baron Cavendish of Bolsover, of Bolsover in the County of Derby)1643年10月27日ニューカッスル=アポン=タイン侯爵(Marquess of Newcastle-upon-Tyne)に叙位された。王政復古後の1665年3月16日ニューカッスル=アポン=タイン公爵(Duke of Newcastle-upon-Tyne)オーグル伯爵(Earl of Ogle)に叙位された[5]

しかしその息子の第2代ニューカッスル=アポン=タイン公爵ヘンリー・キャヴェンディッシュ(1630–1691)が男子相続人なく死去したことで全爵位が廃絶した[5]

ウォーターパーク男爵キャヴェンディッシュ家

ヘンリー・キャヴェンディッシュの来孫でアイルランド議会の議員のヘンリー・キャヴェンディッシュ英語版(1707–1776)は、1755年5月7日にグレートブリテン準男爵位の(ダービー州ダヴリッジの)準男爵(Baronet, of Doveridge in the County of Derby)に叙位された。その息子の第2代準男爵サー・ヘンリー・キャヴェンディッシュ英語版(1732–1804)の妻のサラ・キャヴェンディッシュ(1740-1807)は、1792年6月15日アイルランド貴族コーク県におけるウォーターパークのウォーターパーク女男爵(Baroness Waterpark, of Waterpark in the County of Cork)に叙位された。2020年現在まで存続しており、現在の当主は第8代ウォーターパーク男爵ロデリック・アレクサンダー・キャヴェンディッシュ(1959-)である[6]

チェシャム男爵キャヴェンディッシュ家

デヴォンシャー公爵家の分流にあたるチャールズ・キャヴェンディッシュ英語版(1793–1863)は、1858年1月15日連合王国貴族バッキンガム州におけるチェシャムのチェシャム男爵(Baron Chesham, of Chesham in the County of Buckingham)に叙位された。2020年現在まで存続しており、現在の当主は第7代チェシャム男爵チャールズ・キャヴェンディッシュ英語版(1974-)である[7]

一代貴族のキャヴェンディッシュ家

9代デヴォンシャー公ヴィクター・キャヴェンディッシュの弟の孫ヒュー・キャヴェンディッシュ英語版(1941-)1990年5月17日一代貴族ファーネスのキャヴェンディッシュ男爵(Baron Cavendish of Furness)に叙位されている[8]

系譜

出典

  1. ^ a b c d e f Last name: Cavendish”. The Internet Surname Database. Name Origin Research (2017年). 2019年4月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月19日閲覧。 Template:Tertiary source
  2. ^ a b c d e f g h i j The Cavendish Family- Dukes of Devonshire”. www.cheshirenow.co.uk. 2017年8月9日閲覧。
  3. ^ Heraldic Media Limited. “Devonshire, Earl of (E, 1618)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年5月1日閲覧。
  4. ^ Heraldic Media Limited. “Devonshire, Duke of (E, 1694)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年5月1日閲覧。
  5. ^ a b Heraldic Media Limited. “Newcastle-upon-Tyne, Duke of (E, 1664/5 - 1691)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年5月1日閲覧。
  6. ^ Heraldic Media Limited. “Waterpark, Baron (I, 1792)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年5月1日閲覧。
  7. ^ Heraldic Media Limited. “Chesham, Baron (UK, 1858)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年5月1日閲覧。
  8. ^ Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Lord Cavendish of Furness(英語)

キャヴェンディッシュ家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 01:28 UTC 版)

キャヴェンディッシュ」の記事における「キャヴェンディッシュ家」の解説

詳細は「キャヴェンディッシュ家」を参照 イギリス貴族当主代々デヴォンシャー公爵 (Duke of Devonshire) の称号帯びる。この一族の主な人物次の通りウィリアム・キャヴェンディッシュ (第2代デヴォンシャー伯爵) ウィリアム・キャヴェンディッシュ (初代ニューカッスル公)1592年 - 1676年) - イギリス軍人政治家劇作家マーガレット・キャヴェンディッシュ1623年頃 - 1673年) - 初代ニューカッスル公の妻。哲学者作家ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第3代デヴォンシャー伯爵)1617年 - 1684年ウィリアム・キャヴェンディッシュ (初代デヴォンシャー公爵)1640年 - 1704年ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第2代デヴォンシャー公爵)1673年? - 1729年ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第4代デヴォンシャー公爵)1720年 - 1764年) - イギリスの政治家。首相主馬頭などを務めたヘンリー・キャヴェンディッシュ1731年 - 1810年) - イギリス科学者第2代デヴォンシャー公爵の孫。 フレデリック・キャヴェンディッシュ (1729-1803)(英語版) - イギリス軍人政治家第3デヴォンシャー公爵の子フレデリック・キャヴェンディッシュ (1836-1882) - イギリスの政治家。第7代デヴォンシャー公爵の子スペンサー・キャヴェンディッシュ (第8代デヴォンシャー公爵)1833年 - 1908年) - イギリスの政治家。 ヴィクター・キャヴェンディッシュ (第9代デヴォンシャー公爵)1868年 - 1938年) - イギリスの政治家。カナダ総督植民地相などを務めたエドワード・キャヴェンディッシュ (第10代デヴォンシャー公爵)1895年 - 1950年) - イギリスの政治家。 アンドルー・キャヴェンディッシュ (第11デヴォンシャー公爵)(英語版) (1920年 - 2004年) - イギリスの政治家。デボラ・キャヴェンディッシュ1920年 - 2014年)- アンドルーの妻。

※この「キャヴェンディッシュ家」の解説は、「キャヴェンディッシュ」の解説の一部です。
「キャヴェンディッシュ家」を含む「キャヴェンディッシュ」の記事については、「キャヴェンディッシュ」の概要を参照ください。


キャヴェンディッシュ家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/22 22:37 UTC 版)

ニューカッスル公爵」の記事における「キャヴェンディッシュ家」の解説

ウィリアム・キャヴェンディッシュ(1592-1676)は、北部リンカンシャー本拠とする大地主であり、清教徒革命イングランド内戦)の際には北部独立した指揮権行使して王党派として議会派戦った。彼は1620年10月29日イングランド貴族爵位ノッティンガム州のマンスフィールド子爵」、1628年3月7日イングランド貴族爵位ニューカッスルオンタイン伯爵」と「ダービー州におけるボルソーバーのキャヴェンディッシュ男爵」に叙せられ、1629年には第9代オグル男爵英語版)を継承していた。内戦中の1643年10月27日にはイングランド貴族爵位ニューカッスルオンタイン侯爵」に叙せられた。王党派敗れたため、革命後には所領没収されるも、王政復古後1665年3月16日には勤王評価されて「ノーサンバーランド州におけるニューカッスル=アポン=タイン公爵」と「ノーサンバーランド州におけるオグル伯爵」に叙せられている。これがニューカッスル=アポン=タイン公爵最初の創設だった。 初代公爵死後息子ヘンリー・キャヴェンディッシュ(1630-1691)に第2代ニューカッスル=アポン=タイン公爵位が継承された。彼も王党派として宮廷内で官職与えられるとともに議会では襲爵前に庶民院議員襲爵後には貴族院議員として活躍した。しかし息子ができず、彼の死去とともに爵位消滅した

※この「キャヴェンディッシュ家」の解説は、「ニューカッスル公爵」の解説の一部です。
「キャヴェンディッシュ家」を含む「ニューカッスル公爵」の記事については、「ニューカッスル公爵」の概要を参照ください。


キャヴェンディッシュ家 (1758年 - 1929年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 06:50 UTC 版)

チジック・ハウス」の記事における「キャヴェンディッシュ家 (1758年 - 1929年)」の解説

1758年バーリントン伯爵夫人死後邸宅庭園はキャヴェンディッシュ家に譲られた。ウィリアム・キャヴェンディッシュは、息子である第5代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ (1748年 - 1811年) に財産残し1764年亡くなった1774年ウィリアムジョージアナ・スペンサー (1757年 - 1806年) と結婚したが、ジョージアナはチジック・ハウスを「地上の楽園」と呼び、ここで多く時間楽しく過ごしたという。彼女は定期的に庭園でのティーパーティーのためホイッグ党メンバー招待した1788年、キャヴェンディッシュ家はジャコビアン様式の方の建物解体し邸宅収容人数増やす目的で両ウィング増築するために、建築家ジョン・ホワイト (John White) を雇った公爵夫人1774年建築家ジェームズ・ワイアット (James Wyatt1746年 - 1813年) (英語版) 設計による「古典派風の」(the Classical Bridge) を建設し新しウィングの壁や建物側面バラ植栽した。 1813年外国産のフルーツ椿育てるために、91メートル (300フィート) の温室 (コンサーバトリー、conservatory) がサミュエル・ウェア (Samuel Ware1781年 - 1860年) によって建てられた。園芸家ルイス・ケネディー (Lewis Kennedy) は温室周りイタリア幾何学模様庭園造った1827年トーリー党首相ジョージ・カニング (1770年 - 1827年) は容体急激に悪化し1806年チャールズ・ジェームズ・フォックス (1749年-1806年) が亡くなった同じ部屋死去した1862年から1892年までの間、邸宅はキャヴェンディッシュ家によって多数人物貸し出され、その中には1867年サザーランド公爵夫人 や、1870年代プリンス・オブ・ウェールズ (Prince of Wales) 、1881年から1892年まで建築家ウィリアム・バージェス (1827年 - 1881年) のスポンサーであった第3ビュート侯爵ジョン・クライトン=ステュアート (John Crichton-Stuart, 3rd Marquess of Bute1847年 - 1900年) (英語版) などがいた。1892年から第9代デヴォンシャー公爵ヴィクター・キャヴェンディッシュ (1868年 - 1938年) は邸宅トーマス・シーモア (Thomas Seymour) とチャールズ・モールズワース・テューク (Charles Molesworth Tuke、Thomas Harrington Tuke (英語版) の息子) に貸し、彼らはそこを1928年まで富裕層のための精神病院、チジック・アサイラム (Chiswick Asylum) (英語版) として使った1897年正門の上にあった2体のスフィンクスヴィクトリア女王在位60年周年記念式典 (Diamond Jubilee、(英語版)) の際にグリーンパーク (Green Park) (英語版) に移設され、それらは戻ってくることはなかった。

※この「キャヴェンディッシュ家 (1758年 - 1929年)」の解説は、「チジック・ハウス」の解説の一部です。
「キャヴェンディッシュ家 (1758年 - 1929年)」を含む「チジック・ハウス」の記事については、「チジック・ハウス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「キャヴェンディッシュ家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「キャヴェンディッシュ家」の関連用語

キャヴェンディッシュ家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



キャヴェンディッシュ家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのキャヴェンディッシュ家 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのキャヴェンディッシュ (改訂履歴)、ニューカッスル公爵 (改訂履歴)、チジック・ハウス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS