オイルショック下の経営危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:23 UTC 版)
「マツダ」の記事における「オイルショック下の経営危機」の解説
1970年(昭和45年)、東洋工業はフォード、日産と共同で日本自動変速機(現・ジヤトコ)を設立し、同年にはフォードからの強い申し入れを受けて資本提携交渉に入った。マツダの小型トラックをフォードに供給する業務提携がまとまり、本題の資本提携交渉に入ろうとした矢先、社長の松田恒次が死去。後任には長男で副社長の松田耕平が就任し交渉は継続されたが、NSUが東洋工業とフォードの資本提携は認められないと反対した上にニクソン・ショックも重なり交渉は難航。互いの溝は埋まらず、1972年(昭和47年)3月に交渉は決裂に至った。 1970年(昭和45年)、アメリカでは排出ガス規制を大幅に強化するマスキー法が発効され、自動車業界はかつてない技術的困難に直面していた。東洋工業のREはホンダが開発したCVCCエンジンとともにこの規制を達成し、ゼネラルモーターズ(GM)、トヨタ、日産もREの開発に本格的に乗り出す展開となっていた。このような中、松田耕平はいずれREの時代が到来すると予想して大規模な設備増強を決定。増産工事に続いてREの新工場建設に取り掛かり、研究開発費を含めた総投資額は600億円にも及んだ。この間もRE車の販売は国内外で好調で、特に主要な輸出先であるアメリカでは、1973年(昭和48年)に輸出した台数の内の7割から8割をRE車が占めるほどだった。 1973年(昭和48年)10月、第四次中東戦争の勃発を契機に第1次オイルショックが発生した。10月から11月にかけて石油化学製品の価格は40%から50%上昇し、自動車各社は値上げを実施。同年12月に日本の自動車市場は前年同月比75.6%と大幅な落ち込みを記録した。需要の冷え込みを受けて他社がいち早く減産体制を敷く中、松田耕平はオイルショックによる物資不足は一過性のものであり、購買活動が自動車へと戻る際に備えて作り溜めをしなければならないと判断したため、東洋工業は増産体制を取り続けた。ところが翌1974年(昭和49年)1月、アメリカ合衆国環境保護庁(EPA)がREは通常のエンジンと比較して約50%程度多くのガソリンを消費するとの報告を発表。オイルショックとこの指摘の影響が重なったことで極度の販売不振に陥り、国内外で抱える在庫台数は20万台にまで積み上がった。研究開発費の増加や競争の激化、多品種少量生産による低収益性などが重なっていたところにオイルショックが発生し、東洋工業の財務体質は急速に悪化した。 通商産業省からの要請を受けて東洋工業の経営実態の調査を進めていたメインバンクの住友銀行は、こうした事態を看過できなくなり、1974年(昭和49年)10月、同行事務管理部長の花岡信平と住友信託銀行法人信託部長の中村和生ら4人を東洋工業に派遣。花岡と中村の両人は翌1975年(昭和50年)1月の株主総会で取締役に選任され、これ以降東洋工業の再建は住友銀行の主導で進められることとなった。同月、住友銀行は東洋工業の管理を専門に担当する「融資第二部」を新設。責任者には専務の磯田一郎(後の頭取・会長)が、部長には本店営業部長で常務の巽外夫(後の頭取・会長)が就任した。 東京及び大阪両支社等の土地建物や有価証券の売却、住友銀行を中心とした協調融資、減産及び在庫一掃を目的とした余剰人員のディーラーへの出向、米国販売会社の分割、コストコントロール部の新設による全社的な原価低減活動の開始といった対策が次々と打たれた。しかし、1975年(昭和50年)10月決算では経常赤字が173億円に上り、同業他社の首脳から「東洋工業は倒産する」との談話が出るなど、東洋工業を取り巻く環境は厳しさを増していった。
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