東洋工業(マツダ)の再建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:25 UTC 版)
「永野重雄」の記事における「東洋工業(マツダ)の再建」の解説
詳細は「マツダ再建」を参照 1973年(昭和48年)のオイルショックで、東洋工業(現・マツダ)が経営不振に陥り、再建が焦眉の急となった。東洋工業の創業者・松田重次郎は戦前、呉海軍工廠の工員として永野の弟・伍堂輝雄の岳父で工廠長だった伍堂卓雄の下で働いていたことがあり、この関係から重次郎の息子・松田恒次の墓碑銘は永野が書いた。東洋工業は永野の郷里広島最大の企業でもあり、住友銀行の堀田庄三会長や伊部恭之助頭取、磯田一郎副頭取や、懇意にしていた広島選挙区の宮澤喜一外務大臣が立て続けに要請に来るので、永野は東洋工業の相談役兼最高顧問を引き受けた。広島には地元有力企業12社のトップで構成する「双葉会」という親睦会があり「住友銀行があまり腕力を振るわないように中に入ってもらいたい」という仲介者としての要請であった。「双葉会」としては面と向かっては住友に立ち向かえないので、取引関係で住友に顔の効く永野を担ぎ穏便に解決しようという計算をしていた。住友側としても永野は切り札だった。住友銀行は村井勉常務を東洋工業に送り込んで再建にあたり、同社の松田耕平社長に詰め腹を切らせて会長に追いやり、創業者一族ではない山崎芳樹専務が社長に昇格した。
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