イブン・アラビーとその学派への批判とは? わかりやすく解説

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イブン・アラビーとその学派への批判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 16:30 UTC 版)

イブン・アラビー」の記事における「イブン・アラビーとその学派への批判」の解説

彼の教説各地熱狂的な支持者生み出す一方反対派多くカイロでは暗殺計画があったと言われている。 イブン・アラビーの完全人間論では、修行途中において、人間は神アッラーフの名・属性アッラーフの99の美名)はもとより本質までも体験出来るとしている。唯一なる神アッラーフ人間とは絶対的に隔絶され高みにあるとする主張スーフィズム勃興期から存在しイブン・アラビー存在顕現そのもの認めつつも、アッラーフ至高性を保つためには「本質まで体験し得る」という部分反発する論者多かった。その代表的な人物のひとりにイブン・タイミーヤがおり、15世紀のビカーイー(Burhān al-Dīn al-Biqāʿī 1406年頃 - 1480年)や同じくスユーティー(Jalāl al-Dīn al-Suyuṭī 1445年1505年)といった有名な学識者達がイブン・アラビー批判展開したのも、主にイブン・アラビーの「存在一性論」や「完全人間説」で説かれている「造物主であるアッラーフ被造物区別しない立場についてであったイブン・タイミーヤなどを含む多く有名なウラマーイブン・アラビームスリムではないと断じている。彼が著作中に示した思想にはイスラム教超えるものがあり、例えば彼は古代エジプトファラオ自身を神だとみなしていたことを正しいことだと主張している。これは「我こそは真理なり(anā al-Ḥaqq)」という有名なスーフィー的「酔言」(shaṭḥ シャトフ)を述べた逸話でも有名な9-10世紀スーフィー修行者ハッラージュ(Abū ʿAbd Allāh al-Ḥusayn al-Ḥallāj 858年頃 - 922年)が、悪魔イブリース地獄の劫火焼かれファラオモーセ出エジプトにおいて海でも溺れさせられても翻意しなかった事をあげ、イブリースファラオ行動にこそ真の信仰とみて両者称えた逸話にちなんでいる。 スーフィズム思潮は、スーフィー修行によって感得した境地を「我こそは真理なり」や「アッラーフに讃えあれ」と呼ぶべきところを「我に讃えあれ」といった「酔言」によって表現したり、数々の「奇行」を残した上記ハッラージュやアブー・ヤズィード・バスターミー(Abū Yazīd (Bāyazīd) Ṭayfūr al-Basṭāmī 804年頃? - 874年877年)に代表される酔ったスーフィー」と、スーフィー修行積みつつムスリムとしての道徳規範遵守すべきとするジュナイド(Abū Qāsim b. Muḥammad b. al-Junayd al-Baghdādī 830年頃? - 910年)に代表される醒めたスーフィー」におおよそ大別されるイブン・タイミーヤはジュナイドの系列の「醒めたスーフィー」こそ真に実践すべきスーフィズムであり、否定すべき不信仰者の代表である悪魔イブリースファラオ敬虔なムスリムとの区別すら否定するハッラージュその伝統に属すイブン・アラビーとその論者たちを厳しく批判した。ジュナイドはバスターミーの後輩にあたりハッラージュはジュナイドの弟子ひとりであったが、ジュナイド自身はシャトフやスクル(sukr 陶酔)といった陶酔型のスーフィズム不十分なものとして批判し、師であるバスターミーが陶酔状態こそ最高の境地としたことに対してスクルの後に来る第2の素面である「酩酊からの覚醒酔い覚まし」をこそより高い境地みなした。ジュナイドはスクル(sukr 陶酔)よりサフウ(ṣaḥw 覚醒)、ファナーfanā' 消融)よりもバカーbaqā' 存続)を重視した。この「陶酔」と「覚醒」いずれが最高の境地であるかについては、スーフィズム思想史上の大きな問題として後代まで議論されイブン・タイミーヤイブン・アラビー批判もその延長線上にあると見る事が出来る。 しかしながらイブン・タイミーヤ名指しするイブン・アラビーらの「酔言」に対して懸念した点は、アッラーフによって滅ぼされファラオイブリースといったこれらの存在も(ハッラージュイブン・アラビーらが主張するように)「正しい」「真の信仰者」としてしまっては、不信仰者(カーフィル)へのジハードハッド刑認められなくなってしまう事であり、これを許容してしまうとイスラームにおける社会秩序崩壊してしまうため、イブン・タイミーヤはじめとするスーフィー行者であってもムスリム社会性重視するウラマー達にとっては断じて認められなかった。(実際にハッラージュはその過激な言動見解についてしばしば師のジュナイドから叱正された逸話アッタールの『神秘主義聖者列伝』等で伝えられており、さらに当時異端視されていたザンダカ主義者であるとの批判や、同じくファーティマ朝アッバース朝カリフ認めず一時バグダード征服狙って叛乱起こしたカルマト派との繋がり嫌疑を受け、最終的にはカリフ・ムクタディル(:en)の治世922年)にバグダード逮捕・処刑されている) イブン・タイミーヤ主張では、昨今モンゴル帝国侵攻人々シャリーア無視原因は、こういった「存在一性論」の論者達等の出現よるものである、としていた。

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