アメリカ合衆国の鉄道
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アメリカ合衆国の鉄道(アメリカがっしゅうこくのてつどう)では、アメリカ合衆国における鉄道輸送について記述する。その主力は旅客輸送ではなく貨物輸送であり、鉄道貨物輸送量はトンキロ換算で世界第二位である(2020年)[1]。
- ^ “Railways, goods transported (million ton-km)”. World Bank. 2023年9月閲覧。
- ^ a b “Freight Rail Facts & Figures”. アメリカ鉄道協会. 2023年9月閲覧。
- ^ “CAB(シーエービー)とは”. コトバンク. 2020年4月14日閲覧。
- 1 アメリカ合衆国の鉄道とは
- 2 アメリカ合衆国の鉄道の概要
- 3 車両メーカー
アメリカの鉄道
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ヨーロッパにおいてはイギリスが鉄道技術を先導し、大陸ヨーロッパ諸国でもイギリスの技術的な影響の下で鉄道が発展した。これに対してアメリカでは、比較的初期から独自の鉄道技術が発展した。これはアメリカの国土の特徴が影響している。 ヨーロッパでは当時既に産業がかなり発展しており、人口も稠密であった。一方で土地代は人件費に比較して高価であった。建設に要する土地を削減することは、多大な労働力の投入を必要とする大規模土木工事を要してでも必要とされた。このため鉄道の建設は、かなりの資金を投じて土木工事を行い規格のよい立派な線路を最初から敷設した。産業と人口の観点から、それだけの線路を必要とするだけの需要を最初から見込むことができた。イギリスでは、鉄道が開業した当時と同じ路線の上を現代の高速鉄道が走行しているほど、当初から規格のよい線路を造っていた。ヨーロッパの機関車は、この規格のよい線路を走ることを前提に設計されていた。 これに対してアメリカでは広大な大地にまばらに人が住んでおり、要求される鉄道路線は長大であった。1 kmでも長く鉄道を敷設するために建設費用は切り詰められ、地形に沿って急勾配と急曲線が多く、軌道の狂いも大きい線路が敷設されていた。アメリカでは人件費に比べれば、土地代はタダ同然であったということも影響している。当初は木材の基盤の上に鉄を貼り付けたレールがまだ用いられていたほどである。現代のアメリカの鉄道では、重厚に整備された高規格の線路の上を大重量の高速貨物列車が驀進しているが、当初はこれとは全くかけ離れた軽規格の鉄道であった。アメリカの機関車は、この低規格の線路でも安定して走行することが求められた。 アメリカで最初の蒸気機関車は、技術者のホレイショ・アレンがイギリスから購入した「スタウアブリッジ・ライオン」であった。アレンはイギリスに渡って鉄道技術の習得を行い、4両の機関車を発注して帰国した。このうち、フォスター・ラストリック・アンド・カンパニーが納入した機関車が1829年8月8日、アメリカで初めての蒸気機関車の走行を行った。この機関車をデラウェア・アンド・ハドソン鉄道で使用しようとしたが、イギリス製の機関車は重すぎて線路が耐えられず、機関車の利用は断念されることになった。 アレンは続いてサウスカロライナ鉄道の技師長に就任し、アメリカ独自の機関車の製造に取り組んだ。船舶用ボイラーで実績のあったニューヨークのウェストポイント・ファウンドリー社 (West Point Foundry) に発注が行われ、フラットな車両の上に船舶用の縦型ボイラーを載せたような機関車が完成した。1830年に完成したこの車両は「ベスト・フレンド・オブ・チャールストン号」 (Best Friend of Charleston) と名づけられ、11月から試験運転を行い翌1831年1月15日からアメリカで初めての公共用蒸気鉄道として運転が開始された。リバプール・アンド・マンチェスター鉄道から遅れることわずか4か月であった。ただし、縦型のボイラーは車両限界による高さの制限を受けるためあまり増えることなく、ヨーロッパと同じように横型のボイラーを搭載した機関車が発達していった。 イギリスからの機関車の輸入はしばらく続けられた。モホーク・アンド・ハドソン鉄道の技師長、ジョン・ジャービスは、ロバート・スチーブンソン社からプラネット型の7.5 トン機関車を輸入した。しかしイギリス仕様で造られた機関車は重くスプリングも硬く、アメリカの貧弱な線路には適合しなかった。これを改良するために、2軸のボギー台車を取り付けるアイデアが生まれた。このアイデア自体はイギリスで既に存在していたが、イギリスの良好な線路では必要がなく、実現されていなかった。ロバート・スチーブンソンからこのアイデアを教えられたジャービスは、プラネット型の1軸の先輪を2軸の先台車に置き換えることにし、1832年にウェストポイント社製の機関車「ブラザージョナサン号」が完成した。この機関車は、先台車の働きにより重量バランスが改善されてレールに吸い付くように走り、カーブでは先台車が機関車の進む向きを案内するために線路の損傷が減り、機関車の脱線の確率も減少した。この革新はたちまちアメリカの機関車に広まっていった。 カムデン・アンド・アンボイ鉄道の技師長ロバート・スチブンは、イギリス製機関車を改良する時に、線路上に現れる野生動物などの障害を避けるためにカウキャッチャーを取り付けた。カウキャッチャーは19世紀のアメリカの機関車の特徴となった。 ジャービスの開発した先台車を使用する車軸配置 4-2-0の機関車はアメリカ中に広まったが、牽引力が不足するという不満があり、動軸をもう1つ増やした、車軸配置 4-4-0の機関車にすることが考えられた。1836年にフィラデルフィア・ジャーマンタウン・アンド・ノーリスタウン鉄道の技師長であるヘンリー・R・キャンベルが考案して、翌1837年に実際の機関車が完成した。しかしこの機関車には脱線しやすいという欠点があった。これに対して、ガレット・イーストウィックとジョセフ・ハリソンが1838年に製作した機関車では、動軸の上にイコライザー(釣り合い梁)を取り付けて重量バランスを取り、3点支持とする工夫が入っていた。これにより脱線の確率は大幅に減少し、機関車の性能も向上した。この車軸配置 4-4-0の機関車は「アメリカン型」と呼ばれ、これもまたアメリカ中に広まることになった。 イギリスでは、独立した機関車メーカーも存在していたが、鉄道会社が社内の工場で機関車を製造する例も多かった。これに対してアメリカでは、当初から鉄道会社と機関車メーカーが分かれ、ボールドウィン・ロコモティブ・ワークスのように大きな機関車メーカーが発展した。アメリカで機関車を内製していたのは、ロアノーク工場で製造していたノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道のように例外的な存在である。 また、ヨーロッパでは機関車の台枠として板台枠が主流であったが、アメリカでは棒台枠が主流となるなど、技術的に異なる面が見られた。 アメリカで開発された先台車やイコライザーといった機関車技術の革新は、やがてヨーロッパにもフィードバックされてさらなる蒸気機関車の発展をもたらすことになった。
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