「原爆ドーム」としての再出発とは? わかりやすく解説

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「原爆ドーム」としての再出発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 20:41 UTC 版)

原爆ドーム」の記事における「「原爆ドーム」としての再出発」の解説

広島復興は、一面焼け野原バラック小屋軒を連ねる光景から始まったその中でドーム状のが残る産業奨励廃墟はよく目立ちサンフランシスコ講和条約により連合軍占領が終わる1951年昭和26年)ごろにはすでに、市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていた。 復興が進むなか、全半壊した被爆建造物修復ならびに解体進められ当初産業奨励廃墟取り壊すべきだという意見多かった新聞は「自分アバタ面を世界誇示して同情引こうとする貧乏根性広島市民はもはや精算しなければいけない」(夕刊ひろしま1948年昭和23年10月10日付)などと書き立てた。しかし1949年8月6日広島平和記念都市建設法制定されると、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想象徴として広島平和記念公園構想本格化する。 1953年昭和28年)に、所有権広島県から広島市移転されるなかで、原爆ドームこと産業奨励廃墟除去ひとまず留保され、1955年昭和30年)には丹下健三設計による広島平和記念公園平和公園)が完成した。この公園は、原爆ドームを北の起点として原爆死没者慰霊碑広島平和記念資料館南北方向一直線上に位置するよう設計されており、原爆ドームシンボルとして際立たせる意図があった。 原爆ドーム原子爆弾惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、1960年代には風化進んで崩落の危険が生じた一部市民からは「見るたびに原爆投下時惨事思い出すので、取り壊してほしい」という根強い意見があり、存廃議論活発になった。広島市当局当初保存には経済的に負担がかかる」「貴重な財源は、さしあたって復興支援都市基盤整備重点的にあてるべきである」などの理由から原爆ドーム保存には消極的で、一時取り壊される可能性高まっていたが、議論流れ変えたのは、市内大下学園祇園高等学校生徒ヒロ子の日記である。 ヒロ子は、1歳のときに広島市平塚町現在の中区東平塚町中平塚町西平塚町)の自宅被爆し15年後の1960年昭和35年)に「あの、いたいたしい産業奨れい館だけがいつまでもおそるげん爆を世にうったえてくれるだろうか1959年8月6日付、原文ママ)」などと日記書き遺し、被爆による放射線障害原因とみられる急性白血病のため16歳亡くなった。この日記読み感銘受けた平和運動家河本一郎や「広島折鶴の会」が中心となって保存求め運動始まり1966年昭和41年)に広島市議会永久保存することを決議する。 翌年には保存工事完成しその後定期的に補修工事施されるなど広島市単体での保存・管理続いていたが、被爆50年にあたる1995年平成7年)に国の史跡指定され、翌1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産文化遺産)への登録が決定された。世界遺産ブームのなか、さまざまな年代国籍の人が多く訪れようになった一方立ち入り禁止区域入って落書き悪ふざけをするなどの迷惑行為問題になっている

※この「「原爆ドーム」としての再出発」の解説は、「原爆ドーム」の解説の一部です。
「「原爆ドーム」としての再出発」を含む「原爆ドーム」の記事については、「原爆ドーム」の概要を参照ください。

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