藤原鎌足
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 00:42 UTC 版)
墓所・祭所
死後、奈良県桜井市多武峯の談山神社に祀られる。また、大阪府四條畷市の忍陵神社の主祭神ともなっている。
『多武峯縁起絵巻』には、鎌足が生まれたときにどこからか鎌をくわえた白い狐が現れ、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」と名づけたと描かれている。この逸話にちなみ、談山神社では鎌をくわえた白狐のお守りが売られている。
墓処は定かではないが、『日本三代実録』天安2年(858年)条には「藤原鎌足の墓である『多武峰墓』を十陵四墓の例に入れる」という記述があり、平安時代中頃の成立と見られる『多武峯略記』などに「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市大織冠神社)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。
なお、昭和9年(1934年)に大阪府茨木市大字安威の阿武山古墳の発掘中に発見された埋葬人骨は藤原鎌足本人であるとする説も存在する。一方、『藤氏家伝』の記述に基づき、鎌足の墓は京都市山科区のどこかに存在するという説もある。その説に従えば、山科には「大塚」という地名があり、そこはかすかに盛り上がった地形であることから、そこであることが推測できる。
平成25年(2013年)12月、関西学院大学の調査により、阿武山古墳で発見された棺に入っていた冠帽が、当時の最高級の技術で作られ、さらに金糸を織り込んだものである事が判明。日本書紀によれば、鎌足は死の直前に天智天皇から最上の冠位「大織冠」と大臣の位を贈られたとされており、この冠帽がそれではないかと考えられている[4]。
紙幣の肖像
日本ではかつて紙幣(日本銀行券)の肖像として採用されたこともあり、改造百圓券、甲百圓券、乙貳拾圓券及び丁貳百圓券に採用されている。
系譜
- 父:中臣御食子、母:大伴智仙娘(大伴囓子の娘)の長子。字「仲郎」(=2番目の男子)から史料に記載されていない兄がいた可能性を指摘する説がある[5]。
- 正妻:阿倍小足媛(阿倍内麻呂の娘)
- 妻:車持与志古娘(車持国子君の娘)
- 妻:鏡王女(? - 683年)(最初、中大兄皇子妃だった)
- 采女:安見兒
注釈
出典
- ^ 大隅和雄・ 阪下圭八・ 広末保・ 西郷信綱・ 服部幸雄・山本吉左右 編集『日本架空・伝承人名事典』(平凡社、1986年)397頁
- ^ 『大鏡』
- ^ a b 遠藤慶太 著「入唐僧貞恵と藤原鎌足」、篠川賢; 増尾伸一郎 編『藤氏家伝を読む』吉川弘文館、2010年。/所収:遠藤慶太『日本書紀の形成と諸資料』塙書房、2015年。ISBN 978-4-8273-1272-0。
- ^ “藤原鎌足の墓説さらに強まる 阿武山古墳に最高級の冠帽”. 朝日新聞. (2013年12月10日) 2013年12月14日閲覧。
- ^ 遠山美都男『大化改新―六四五年六月の宮廷革命―』中央公論社1993年ISBN 978-4121011190
- ^ 『尊卑分脈』による[注釈 3]。
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